ラ・クカラチャ

色がザワザワと艶めくように光る通りを、俺とミツバは歩いていた。
俺はここに来るのは初めてで、ミツバはもう常連客、というよりもこの「世界」自体に慣れている。

テンペランティア。
お前となら、一緒に行ってもいいかなと思うからさ。

予備校の帰り、急にミツバはそんな事を言い出して、ほら、こっちと俺の手を引っ張った。
ちょっと目を閉じてろ、と言われて、次の瞬間。
何にもないはずの街角を曲がれば、とにかく人が溢れかえった場所に出た。
知らない空気、匂い、酔狂な幼馴染だとは思っていたが、ついに俺も巻き込まれた。

「まー、ざっくり説明するとね。ちっさいころからさ、俺は親とこっちと日本を行ったり来たりしてんだけど。いろんなとこを歩いた中でここが一番安全なとこだと俺は思う訳よ」

ずかずかと人ごみの中を平気ですり抜けて、ミツバは話しながら俺を振り返った。
はあ、と俺は上がった息を整えて、ミツバを見上げた。
あ、色々アイテムも渡すわ、とブレスレットやらスタンプを手に押されると、周りの言葉が日本語に訳されてくるのを感じた。
まあお前もすぐ慣れるって、とミツバは笑うが、慣れるもなにもない。突飛過ぎるんだよ!と怒鳴っては見るけど華麗なるスルーでミツバは歩いて行く。

「ミツバちゃん!お久しぶりねえ。お店、寄ってくの?大歓迎よ」
「あらぁ、ミツバじゃない。たまには付き合いなさいよ。可愛い子連れちゃってさ。お相手もサービスするわよ?」

新宿歌舞伎町に近いような空気だがまるで違う、でも無駄なほど装飾があって人種もごった返してるようなこの場所は、…要するに。
ミツバは彼女たちに愛想良く、アハッと笑って手を振りながら俺に説明を入れる。

「健全な男子ならば、女性に触れたいのは当然!しかし悲しいかな、日本では俺たちが入れるようなお店は無い。というわけで連れてきたの。
ま、様は享楽街。クーナ・パラディーゾって言うんだけどさ。
毎日毎日受験勉強なんざやってらんないし、こっちなら俺は親父のコネで、タダ同然でかんわい~い子とたーっぷり、遊べるわけ」

感謝しろよ?とミツバは女を虜にしまくった笑顔で俺を覗き込んだ。
呆れてため息も出ない。

「お、俺そういうのは苦手だって知ってんだろ…?何で、俺なんだよ」
「ばーか、だから連れてきたんじゃん。せっかくお前、見てくれいいのにもったいないっつの!男になれ男に!」

ばしぃ、と叩かれた背中よりも事実を突かれたのが痛い、が、俺にはそんな気は起こりもしない。
テンペランティアという名前はなんかの噂で聞いたことがあったけど、実際見渡してみれば何だか訳がわからない。
言葉自体何語何だかわからないことを話してたし、アイテムだとか、謎が多すぎる。
帰りてえ。
心の底からそう思ったが、ミツバを見失っては本末転倒だ。
仕方なくミツバの後ろを歩きながら、俺はこのテンペランティアという世界を眺めた。
眺めたところで何にもならないと気付くだけ、馬鹿じゃない。

「よっしゃ、今日は着いたぞ!」

ミツバが大声をあげてガッツポーズを取り、にやりと口角を持ち上げて、煉瓦の壁を指差した。

「ただの壁じゃねーか」
「ばぁか、ココにあんのは意味があんだよ。普段はそうそう現れないんだぜ。ラッキーだったなお前」
「意味がわからねーよ。何でもいいからさっさとしろ。俺は帰りたい」
「あ、しばらく無理」
「は!?」
「この人の機嫌次第だから…って、たっ!痛たたたたたた!!!」

ギリギリギリ、とミツバの指が絞られるような音が聞こえた。
ふっと目の前を見れば、真っ黒な長い髪を携えた人(と言っていいのか)がミツバの指を握りしめて、恨み辛みを表情に集中させている。

「何じゃあ、ミツバか…」

男なんだか女だかわからない声だが、女だと直ぐにわかった。
黒耀の様な瞳の上には、それを増長させるような長い睫毛とアイシャドウ、唇には赤い紅、衣服は漆黒のドレープ。

「痛えよ、ラクさん」
「お前、まだこんな場所をうろついているのか。好き物じゃなあ」
「ラクさんに会いたかったの。てか、正確に言うと、ラクさんに会わせたい人がいて」
「何?」

ラク、と呼ばれた人はきつい瞳のまま、その視線を俺の碧色の目にぶつけてきた。
あ、飲まれて食われる、と何となく思ったけど、別にその人は何をするわけでもない。
ただ、俺をじっと見つめているだけだ。
気味が悪いが、目をそらすのもばつが悪い。
しばらくそうしていると、ミツバが口を開く。

「あのさあ、ラクさん」
「何じゃ」
「指そろそろ離してもらえますかね」

ああ、と彼女はミツバの指を離す。
俺はぎょっとした。
彼女の指の形そのままにミツバの指が捻じれていたのだ。

「ミツバ!」
「これくらい平気だって。すぐ治るようにしてある」

ふらふらと手首を何度か振ると、ミツバの指は元通りの長く骨ばったものに戻った。

「この区間での闘争は禁止じゃからな。ある程度、身を守る術は必要なんじゃよ」
「ラクさんもひとりで店なんか持たないで、もっとでかい店で雇ってもらえばいいのに」

そうしたら、こんなこといちいちしなくて済むじゃない。
ミツバはため息交じりにそう言った。
彼女はきっぱり、妾(わらわ)は厭じゃ、と言った。
言葉の雰囲気は、随分年老いた感じがするが、声は相反して若々しい。
そして何より、彼女の持つ黒さが美しい。
漆黒って、カラスの濡れ羽色とか蝙蝠の様な、と例えられたりするのだろうけど、彼女の持つ艶はもっと違う。

「そうじゃ、名前を聞いておらんな。妾はラ・クカラチャ。この辺の奴らにはラクと呼ばれとる。好きに呼べ」

ラ・クカラチャ───ゴキブリ。もしくは油虫。

制服のシャツの下に汗が一筋走った。
忌み嫌われる黒の虫。
ある革命から生まれた民謡では、ラ・クカラチャは兵士を意味されたと解釈してもいい。

「俺は、水稚・R・神。───ミズチでも、ジンでもいいよ」

彼女は良い名、と褒めていいのかはわからんなとミツバを見あげる。
概念が違うもんな、とミツバはへらへら笑う。

「あ、でも、神はミドルネームがあるじゃねえか。こっちではその方が覚えてもらいやすいかもしれねえな」

ぱちん、と治ったばかりの指を鳴らして俺の「R(アール)」と名乗った箇所をつついた。
ミツバはじゃぁ、俺は行くとこあるから、明日またここに来ると言うが早いが、雑踏にまぎれていった。

俺は、ラ・クカラチャとは正反対で、国籍は日本だが金髪碧眼のハーフだ。
彼女を見ていると、自分はどこもかしこも白いように思えてくる。
ぱちくり、と瞬きをして黒眼をきょろりと俺に向けながらラ・クカラチャは問いかけた。

「贅沢じゃのう、三つも名があるのか」
「まあ、人によるけど」
「で、何て言うのだ」
「…ラファエル。水稚・ラファエル・神。日本じゃ誰もラファエルとは言わない」

母親がクリスチャンで、なんて言ってもわからないだろう。
癒しの天使という存在らしい。
そんな大層な天使様の名前をつけてくれたなら、加護があっても良かっただろうに。
ほう、と彼女は何度かその紅い唇でラファエル、と反芻して、笑った。

「気に入った。妾はラファエルと呼ぼう。気に入ったぞ、小僧。今夜はお前を相手する」
「相手は─しないでいいよ、今日は。その代わり、俺はあんたを───ラジエルと呼びたい、けど、いいかな」

ラクは色っぽさがない。かといって歌うようにラ・クカラチャと呼び続けるのも恥ずかしいものがある。
神の神秘という意味の言葉だって伝えると、ラ・クカラチャは黒眼を大きく見開いた。
秘密の領域と至高の神秘の天使という、母からの受け売りで。
黒耀でもゴキブリでも蝙蝠でもないだろう、こんな美しい女が。

何も知らないこの世界で、俺はラジエルという女を知っていくことから、この世界が開いていくのを感じていた。