ラ・クカラチャ 02

虫が一匹、腕に飛んできた。
良く居る虫。
違う世界に居ながらにして、共有される生き物。
汗が流れる。
顔には皮脂が。
彼女を避けて 俺にだけたかるのはきっと、こっちの水が甘いから。

「どうかしたか、ラファエル」
「いや、さっきから蚊が一匹」
「……どこじゃ」
「逃してるから解らない」
「始末は妾がする」

ちっ、と舌を鳴らしたラジエル───ラ・クカラチャは面倒じゃのと呟いて、暗い廊下を俺と二人で歩く。
煉瓦の壁に埋め込まれた、よくありがちな漫画のような魔法陣に彼女が手をかけると、そこは重厚な二重扉になっていた。
さらにラジエルがそれを解くのに何か呪文を唱えていたが、それを解読するまでには翻訳の力は及ばないみたいだ。

「ラファエル、今のは妾に非があったが、覚えておけ。虫一匹、この館に入れてはならん」
「どういうこと?」
「今判らせる。そら、部屋に着いたぞ」

ぱちん、とラジエルが手をたたくと廊下だった其処は、一面紫で作られた大袈裟な寝室だった。
バニラの様な、甘い香が焚きつけられた甘い甘い空間はまさに異世界だと俺は実感した。

「うわあ」
「今日は紫の間の気分でな。気に入ったか」
「…その時によって、部屋を変えるの?」
「気分は大事じゃ」

ラジエルは笑い、紫の大きなソファに横たわって、空中で右手を振るって煙管を取り出す。
イメージとして思いつくとすれば、中世の宮殿の様で、ひとつひとつの家具などは異様に高そうな雰囲気だ。

「突っ立ってないで、こっちに来るが良い。客なのだ。相応にもてなすぞ」
「…ラジエル、俺、金持ってないよ?」

そうだ、ミツバからは日本語翻訳用のブレスレットと、何個かのスタンプを押されただけである。
財布の所持金は二万だけど、この人が醸し出す雰囲気から「そんなはした金で妾を買おうとは良い気だな」ともう言われているようなものだ。

「金?日本円か、アスか?」

頭の上にクエスチョンマークをつけてぼんやりしたままの俺に、ラジエルは大きく煙草の煙を吹いて質問し返してきた。
だが更にわからない言葉が飛んできて、うーん、と唸っていると、呆れかえったようにラジエルはソファの上で天井を仰いだ。

「もしや…小僧、初めての滞在か?…ミツバめ、あ奴、今度会ったら指を捩じるくらいでは済まさんぞ。
おお、すまん。アス、というのはこちらの通貨の事じゃ。当館では、どちらも扱えるぞ。
その前に、ラファエル…ミツバはお前に何の魔法アイテムを施した?見せてみい」

俺はラジエルの前に、ん、とブレスレットの付いた左手と、スタンプを押された右手、腕を見せた。
つっ、とラジエルの長く黒い爪がそれをなぞり、成程のう、と呟いた。

「最低限、身を守るようには施してあるか」
「…でも、何が何だか俺にはわからないんだけど。ミツバ、説明もしないでどっか行っちまったし」
「…闘争が出来んのが辛いと思うた事は何度とあったが、あの餓鬼…」

とにかく座るが良い。
ラジエルはソファに戻ると、自分の隣を叩いた。
ラメが折り込まれたビロードの大きなソファは、雲のような座り心地だった。

「すごいな、俺のベッドより大きいぜ!このソファ」
「良いものじゃろう?…ふふ、ラファエルよ、お主は笑っている方が可愛いぞ」
「…あの、それは普通こちらが言うものじゃないかな」
「細かいことは気にするな。それよりもお前の持っているアイテムについて説明しておくぞ。
今後もこの世界に来るのならば、覚えておくに越したことは無い」

それに、今夜は少々騒がしくなりそうじゃしな。
ラジエルは小声でそう呟いて、俺の腕を指差して説明を始めた。

「まず、そのブレスレットは渡した者が渡された者の居場所を所有できる能力がある。
お主の居場所を特定することが出来るものじゃ。ミツバがお前の居場所を握っている、という事になるわけじゃ。
それと右手の平のスタンプが防弾幕、腕のものが魔法返し、魔法封じと言ったところかの。
どれも防御の初歩用じゃが、武器も持たず、妙な客が居る今は最適なアイテムじゃな…さあて、そろそろ、出てくる気になったかのう?
───闇より出でし契約の者・ベルゼブブ!」

煙管の灰を床に撒いて、そう彼女が叫べば、背後から唸るような羽根の音がすりぬけた。
さっきの蚊だ。

「ラジエル、さっきの」
「ああ、蚊ではないぞ。こいつは蠅だ」

灰の上に留まると、それを吸いとり、吸いとり…人の形を成していく。
二メートルはあるであろう長身と、威圧感のある重厚な鎧と、背中の羽根は確かに見覚えがある蠅の様なものだった。
それに気後れすることすらなく、ラジエルは腕組をしながら不機嫌に問いかけた。

「何の様じゃ?ハルファス嬢の望む子は順調に育って居るぞ。使い魔にこれくらい頼めばいいものを、何故護衛隊長のお主が出てくる?」

毅然とベルゼブブは短く切り返す。とても低い声が部屋に響いた。

「貴女の腕にかかれば、望みのままであることは誰もが存じております。私はハルファス様がご懐妊致しましたことをお伝えに参じただけ」

ラジエルの黒眼が、くっきりとこの紫の空間でも浮かびあがることを俺は見つめていることしかできなかった。
何の話なのかもわからない。ただ、重要な話であることしかわからない。

「何、じゃと…」
「貴女と話をするのには非常に大変な手続きが必要だ。それも、ハルファス様がご懐妊したことは私しか知らぬ事…そこで、その少年に隙が生じておりましたので今、こうしていられるわけでございます」
「こ奴は関係無い。…そうか。では、『どうするか』をまたハルファス嬢に聞いて知らせに来るが良い。
契約者の証じゃ。これさえあれば妾の元にいつでも来ることが出来よう?」

ラジエルはドレープの裾から、一つの鈴を出した。
ベルゼブブはそれを受け取り、一礼する。
すると苦笑し、整った顔が和らいで俺の方へ向いた。

「では、また参じよう。少年、済まなかったな。名を何という?」
「───ラファエル」
「そうか、これも何かの縁かどうかはわからんが、そんなに無防備ではこの無法地帯で消されかねんぞ。
今日ここに入れた礼だ。使うが良い」

ベルゼブブは小さな小瓶を俺の手のひらにのせる。
何だろうか、とラジエルを見るが、彼女は眉間に皺をよせて、親指の爪を噛んでいた。

「…香水だ。俺と同じ姿になり、誰も気がつかなくなるぞ」

当然だ、と言わんとばかりに彼が説明をする。
それではラ・クカラチャ、また近いうちに。
ぱちりと何の音もせず、ベルゼブブはその場から消えた。

「…ラジエル…?」

おそるおそる声をかけると、長い黒髪をふるふると振るう。
深刻そうな顔に、こちらもどうしていいものかわからない。

「とんだ日になったもんだ…やれやれ…まあ、お主に怪我がなかっただけ良かったとしよう。
さて、何か食べるか?それとも風呂か。それとも」

しかしラジエルは慣れていたかのように遊女の顔に戻った。
それになんだか軽い眩暈を俺は覚える。

「いや、もう疲れた。寝かせて」

天蓋付きのベッドなんかじゃなくて、このソファでいいからさ。
焚きこんだ香とは違う甘い香りの、優しい紫色のソファに横になる。

「若いのに、随分欲がないのう」
「欲はあるけど金がない」
「ミツバに金などツケておけば良い」
「友情破綻の危機になりそうだからヤダ」
「…難しい言葉を使うんじゃな。慎重というかなんというか」

だが、確かに疲れたのう。

ごろん、と俺の隣にラジエルが横になった。
今日はともかく、いざこういうときはどうしていいのだろう、どうしたらいいんだろう。
ふふ、とラジエルが微かに笑んだ。

「ラファエル、お主とは趣味が合いそうだ」

妾もあのベッドよりも、このソファで眠るのが好きなんじゃ。

「おやすみ」
「……おやすみ」

薄く笑んだ綺麗な寝顔をソファに沈みこませて、ラジエルは眠る。
俺は、さっきの彼らのやり取りに脳内が沸騰しそうだった。
一体この女は、何をしているんだろう。
一体此処は、何をしているんだろう。
一体俺は、此処で何をするんだろう。

そうして、俺もキラキラと光るビロードの生地を視界から遮断した。