ラ・クカラチャ 03

あれから、三日が経った。
今思い返しても、夢なんじゃないかと思う。
数学の授業を受けていることがこんなにも安心するなんて思いもしなかった。
テンペランティアという謎の世界。ラジエル───ラ・クカラチャ。
油虫の名を名乗る、黒い女と、蠅の羽が生えた男。
図書館で借りた資料で調べた、彼の名前は「ベルゼブブ──蠅の王」
俺が見聞きしたのは一体何だったんだ。夢じゃないんだよな?と何度ミツバに問いただした事か。

「おい、ミツバ!ミツバ!!」

巻きこんだ当の本人は、飄飄として廊下で抹茶オレを飲みながら女子と話しこんでいた。
一回殴った方がいいか、いやでも確実に俺が負ける。
うん?とほわほわした笑みで女子に手を振って俺に向き直る。

「血相変えてどうした、神。一口飲むか?」
「いらねーよ」
「こえーこえー。で、まだ何か言いたいことあるわけ」

ああ、大アリだね!と叫ぼうとした俺の口に、ミツバはストローを突っ込んでくる。

「あんまり学校でそういう話を大っぴらにすんな」

ごくり、とあまったるいミルクと苦い後味で黙らざるを得なくなった。俺は抹茶オレが苦手だ。
平気でごくごくと飲めるミツバは、転じて真面目な顔つきに変わる。

「…じゃーどこでしろってんだ」
「メール?」
「お前返信しないじゃんか」
「うーん。そんなに気になってしまったか、ラクさんが」
「………は?」

うらっ、とミツバの手から空っぽになった抹茶オレのパックがゴミ箱に放られる。
ナイッシュー俺!とか言いながら、どんどん話はねじ曲がっていった。

「いや、そうでなくてだな」
「確かにラクさんは綺麗だ。あの色街の中ではトップクラス。お前が惚れるのはわからなくもない」
「ミツバ、話を聞け」
「そりゃー親友として、協力しなくちゃな!」
「親友とか平気でさらっと言うな、気持ち悪ぃ」

こいつは話を脱線させる天才だ。ホント言うと、俺よりもアメリカ人の血が入っててもおかしくない。
いやそうじゃない、俺がラジエルに惚れてるとか、もうその時点から話をし直さないといけないのか?
ため息をついたところで、予鈴が鳴った。

「よし、今日の予備校の後、行くからな!お袋さんに電話しとけよ?」

その囁きにこくりと首を縦に振った。
そう、それが目的だったのだ。
本当にあの世界は存在するのか。俺はそれが気になってしまっていたのだ。

「……やっぱり夢じゃねえのかよ」

先日と同じ場所に降り立つ。同じような風景に、げんなりしつつもどこか安心した。
ばしっと背中を叩かれて、ってえなとミツバを睨むとやたらと真剣な顔で静かに重くつぶやいた。

「阿呆。ここも現実なんだ。よく見てろ」
「…ミツバ?」

そういえば俺は、何故ミツバがこんなにこの場所に慣れているのかをよく知らない。
知っているのは只、「親と小さい頃から行き来している」というざっくりした説明だけで。
聞いてみようとしたときに、高く凛とした声に背中を捕まえられた。

「ラファエル様とミツバ様でいらっしゃいますね?」

ぴよぴよぴよと子供靴のような音を鳴らして、そいつは俺達の背後から正面に回りこんだ。

「ラ・クカラチャ様の御使いでやってきました。パピヨンと言います。ラファエル様と、ミツバ様がこの世界にいらしたのを主は察し、お迎えせよとのことでした」

スカートをつまんで礼をする、その姿はどう見ても4、5歳の少女だった。
ミツバはさっきまでの深刻な表情がウソみたいに一変して、お、久しぶりだあ!とか言って声をかけてる。
紫の髪と目を持つ少女は人形みたいで、でもやっぱりあのラジエルと主従関係(?)に当たる娘なだけに、その顔には蝶の形をした仮面がつけられている。

「…あ、だからパピヨンなのか」

妙に合点が行ってしまったのに自分でもわかって、がくりとうなだれそうになったけれど、先を行く二人を追いかけた。

「おお、来たな。ご苦労、パピヨン」

三日ぶりのラジエルの館は、シンプルな白い内壁に、白い家具だけで統一されていた。
ちわーす、と片手をあげて軽く挨拶するミツバに対して軽く会釈する俺を見て、彼女はくしゃりと笑った。

「今は大掃除中でな。何かと騒がしいが、まあゆっくりしていけ」

先程俺たちを迎えに来てくれたパピヨンという少女も、今は窓磨きをしている。
それに、他にも子供たちが数名この部屋を掃除していた。

「ラクさん、他の間は?みんな掃除中なの?」

邪魔になっちゃ悪いからとミツバはそう尋ねたが、この部屋がまともだからとラジエルはソファに腰かけた。
俺たちも勧められて座ったが、何となく落ち着かない。
ミツバはああそう、と慣れた様子で魔法で出された紅茶に口をつけた。

「ラジエル、この子達は?」

奇妙な空間に耐えきれず、思わず口を開いてしまった。
華やかな髪の色や、目の色を持つ魔法でもかけられたような美しい子供たち。
ラジエルの顔が一瞬強張ったのがわかった。
そしてその黒曜石の瞳は俺の碧眼からそらされる。
それでも彼女は一言つぶやいた。

「妾が産んだ子供達じゃ」

絶句で受け止める俺の隣から、平然としたミツバが飲み続けている紅茶の香りだけがその場の空気を支配していた。