序 02 -Temperantia-

「おや、紹介者もいない来訪者かい?」
それが、この街に来て初めてかけられた言葉だったよ。今でもよく覚えてる。
あんな形で転機が訪れるなんて、思ってもみなかったからな。

十年前の当時、大学四年生だった俺は就職がちっとも決まらずやさぐれていた。
自分は何でも出来るという根拠のない自信を、増え続ける不採用通知で砕かれるごとに気は重くなり、 いつしか大学に行くことさえ億劫に思うようになっていたんだ。
気の持ちようが全てを決めるわけじゃないが、その時の俺がよくない方向に向っていたのは確かだろう。
実際新しく企業への面接を申し込むことも少なくなり、自然と部屋に引きこもることが増えていった。

その日も俺は大学に行こうとして、途中で気が萎えると適当な角を曲がった。
そして、真っ直ぐ駅に引き返すつもりで、うらびれた細い商店街に足を踏み入れたんだ。
「何だあいつ」
俺が思わずそう言ってしまったのは、数メートル先にいる中年男が不審な動きをしていたからだ。
狭い横道の角に立っている電柱と、ブロック塀の間をスーツ姿の男が行ったりきたりしている。
最近流行っているストーカーだろうか。だがそれにしては男は塀の中に興味があるようでも、誰かを見ているわけでもない。
ただ自分の足元だけを睨んで行ったり来たり行ったり来たり、どう見ても不審者だ。
何となく近づくのが嫌で俺も立ち止まって見ていると―――― なぜか、男は唐突にいなくなった。
「…………は?」
どこかへ行ったんじゃない。ずっと見ていたんだからそれは確かだ。
男は単に何度目かに電柱の後ろを通って、そのまま出てこなかった。
俺はダッシュで電柱にかけよると後ろを見る。何もない。当然だ。抜け道もないし、人が隠れられるほどの太さじゃない。
「何だこれ……」
これが神隠しってやつか?
そうだとしたら随分積極的な神隠しだ。中年男はまるで自分がいなくなることを期待するかのように怪しい行動をしてたんだから。
俺は何度かぐるぐると電柱を回りながら調べて、そして…………何故あんなことをしたんだろう。
結局俺は、自分も電柱と塀の間を行ったり来たりしてみることにしたんだ。

馬鹿馬鹿しい、と思いながら奇行にいたったのは、単に何もかもがつまらなかったからだ。
そこに来て変なものを見てしまった。だからちょっとは気晴らしになるかと思ったんだろう。
だがそれは単なる奇行でしかなく、五度往復した時点で、俺は自分で自分を嘲笑いたい気分になっていた。
「アホか」
腹立たしさを込めて足元の小石を蹴り上げる。石は音も立てずに路地の向こうに転がっていった。
俺は踵を返して道に帰ろうとする。だがその時、急に日が翳り、世界が暗くなった。
「何だ?」
空を見上げ、一歩を踏み出す。
そして俺は―――― この街に迷い込んだ。

日が翳ったのは屋根があった為だ。アーケード街によくあるような通りを覆うドーム状の屋根。
念のために言っておくが、それまでいた商店街にはそんな気の利いたものはなかった。罅割れたアスファルトが日に照らされていただけだ。
だが、俺が踏み込んだ先は違う。日を遮るドームに広い道の左右に立ち並ぶ店。赤レンガが敷き詰められた道は瀟洒とさえ言えた。 そして何よりも違ったのは、そこにはまるで駅前の通りのように賑やかに人が行き交っていたってこと。
あちこちでかわされる会話から波立つざわめき。それは空気そのものとして呆然としていた俺に押し寄せた。
スーツ姿のサラリーマンや、連れ立って歩く学生たちは、驚いている俺こそがおかしいかのように平然と目の前を通り過ぎていく。
少し変わった服装の人間もいたが、都会にはそんな人間いくらだっているものだろ?
俺はしばらくすると、ここは商店街のもう一本横の道かその辺の通りで……つまり、いつの間にか迷子になって見知らぬ場所に来てしまっただけだと片付けることにした。

何食わぬ顔で、だけど内心動転しながら人の流れに乗る。
ふと近くの店を見ると「妖精の粉、入荷!」なんて張り紙がされていた。何の商品だか知らないがどういうネーミングセンスだ。
駅の方角がどっちかは分からないが、多分来た方向へ戻るってことはないだろう。俺は先に向って歩いていく。
時々頭に耳をつけた奴らとすれ違ったが、何のおまじないかと思っただけだ。
コスプレにしては普通にスーツ着てたり……意味が分からない。
怪訝に思っているとちょうどゴスロリ服に猫耳をつけた女の子二人組みがやって来て、歌うように笑いさざめきながらすぐ近くを通り過ぎていった。 あんまり近かったんで、俺の耳にも二人の会話が聞き取れる。
「昨日シュヴァルツァの人間がリベル・トリニタで乱闘騒ぎを起こしてたみたいよ」
「えー面白そう。見たかったなぁ」
「どこが。貴族なんて関わり合いにならない方がいいって」
貴族?
それはまた聞きなれない単語だ。
ヨーロッパの話か「ごっこ遊び」か。コスプレをしているくらいだから後者かもしれない。俺は吹き出しそうになって口元を押さえた。
黒尽くめの男の脇をすり抜けて先へ向う。男は日本刀のようなものを腰に下げていたがあれで警察に注意されないんだろうか。
屋根を見上げるとそろそろこのアーケード街も終わりのようだ。少し行ったところで建物が途切れているのが見て取れた。
その先が多分駅なんだろう。こんな通り初めて来たけど。
―――― だけど俺の予想は外れた。
アーケードから出て広場に出た俺は、見晴らしがよくなった景色を前に足を止める。
遠くに見える白い大きな建物。それは俺が見慣れていた駅ではなく、初めて見る崩れかけた西洋の城だった。

「ど、どこなんだよ、ここは」
ついに俺はその疑問を口にした。口にせずにはいられなかったんだ。
ずっと先に見える城だけじゃなく、近くの風景も人間もよく見ればおかしなところはいっぱいある。それを今まで、深く考えないで何かの遊びだと片付けていただけだ。
俺は愕然と立ち尽くす。不思議とその時は行き交う人間に尋ねようとは思わなかった。何だか頭が混乱して、単なるサラリーマンに見える男でさえ 得体の知れないもののように見えていたからだ。
そして、迷子のように一人きりだった俺は―――― あの彼女に声を掛けられた。
「おや、紹介者もいない来訪者かい? 珍しいね」
振り返った先にいたのは七歳くらいの幼女。
だが彼女の目線は俺よりもずっと上にある。つまり宙に浮いて俺を見下ろしていた。
「ならばようこそと言おう、来訪者よ。この街の名はテンペランティア。全てがある混沌の街だ。
 君も折角来たのだから楽しんで行くといい」






それから先のこと? 色々あったな。なんたって十年だ。
だが結局あんたもご存知のように、俺はここに住んで、この喫茶店のマスターをやってる。
コーヒーの淹れ方だけは自信持って上手くなったと言えるね。彼女にしごかれたからな。
ああ。たまに帰ることもあるよ。家族は俺が外国で働いてると思ってるから。そういう風に隠れ蓑の職を用意してくれる会社だって最近はあるんだ。

何でここに住むことを選んだかって? それは一概には言えないな。
ただちょっと面白いからってのはある。あんたみたいに右も左も分からないって奴に出会うと、あの時の彼女が何で機嫌よさそうだったか分かるんだよ。

―――― ようこそ、テンペランティアへ。ここは混沌の街だ。

どうだ? ちょっと言いようのない期待が膨らむだろう?
この街は楽しいことばっかりじゃないが、何でもある。それを知った時のお客さんの顔が面白くて、俺はコーヒーを淹れるんだ。