君を誘う物語 00

 貴方は知っているだろうか。 此処には無い別の世界の存在を。
此処ではない何処かへと、思いを馳せたことが、貴方にはあるだろうか。
 私は幾度となく、心も身体も総てが自由に飛翔することが出来た。
そこにいるときだけ、私は誰よりも自由で、誰よりも囚われていた。
 物も、者も、モノも。総てのものが混沌と共存する世界。
不完全な形をある意味で完成された、その私達とは全く異なった場所では、総てがあった。
 私の物語。貴方の物語。彼の物語。彼女の物語。
そしてこの物語は、『私が目にした彼と彼女の物語』だ。
 『私』は決して『彼』と『彼女』を忘れたくは無かった。
だけど、それをその世界で口にすることは、出来なかった。
だから私は、この世界でそれを残すことにしたのだ。
 『彼』と『彼女』を知らない『貴方』が、私の愛する二人を記憶の何処かにとどめていてくれれば嬉しいと思う。
 だけど、どうか分かって欲しい。
その場所に存在する『物語』は、そこに存在する総てのモノの数だけ存在する。
だからどうか覚えていて欲しい。
 私がここに記す『Temperantia』は、決して一つではないことを。
貴方がもし旅立つ日が来るのなら、そこから先は『貴方』しか知らない物語が待ち受けているはずだから。


◇◆◇◆◇


 こぢんまりとした本屋の平台に並べられているその本は、著者によるそんな書き出しで始まっていた。
 無論それは本編ではなく、いわゆる前書きの部分に当たるものなのだろう。
だが、専門書などならともかくとして、ファンタジー小説においては「前書き」自体が珍しいとも言える。
 だが、偶然その本を手に取った佐藤深海(みうみ)は、それが珍しいということも知らなかった。
少し時間を潰そうとして入った本屋で、たまたま目に付いたその、『Temperantia』というタイトルが付けられた本を取ったのは偶然以外の何者でもなく、「偶然」以外の言葉で表すとしたら「気まぐれ」くらいしか思い当たらなかっただろうから。
 そもそも深海は、あまり本を読まない。
嫌いなわけではないのだが、彼女の生活パターンの中にはゆっくり本を読むという名目で確保できる程、時間に余裕が無いから。
 だから深海は、その本を目にしたことはあっても、既に初版本を発行してから優に二十年経つ今でもベストセラーであるなんてことは知らなかった。
とても一人の脳内で作り上げられた世界であるとは思えないほどの、完成された世界がその本の中に存在するということも知らなければ、その中で生きて、死んでいったものたちの物語が、当時どれほどの反響を世間に与えたかも知らない。
 どれほどの論争と議論を呼んでも、著者は一貫して沈黙を貫いたことも知らないし、シリーズが完結して間も無く、次回作が期待されていたにもかかわらず、著者が謎の言葉を残して失踪したことも知らない。



「『貴方がもし旅立つ日が来るのなら、そこから先は『貴方』しか知らない物語が待ち受けているはずだから。』か…。」



 ぱたり、と。
手にとってぱらぱらと『 Temperantia 』の前書きを斜め読みしていた深海は、その最後の一行を読んで、何となく小さな声で復唱してから本を閉じ、それを平台の元の場所へと戻した。
 腕時計を見れば、もうすぐ約束の時間が来ることを指し示している。
反射的にため息を一つ吐いてから、深海は顔を上げると、気を取り直すかのようにきっちり前を向いて本屋を後にした。
 だから深海は知らない。
本屋を出てすぐ左、五メートルほど場所にある、少し古びた街灯の下で、逆立ちをした若い男が円を描くように回ったあと、その街灯と民家の壁の細い隙間を通ったと思ったら、忽然と消えてしまったことを。