君を誘う物語 01

 今年、めでたく高校へと進学した佐藤(さとう)深海(みうみ)は、夕方暗くなりはじめた商店街の中をとぼとぼと歩いていた。
どことなく元気が無く、気付けば溜息が出てしまうのは、高校生となって授業初日の今日、学校の各教科の教員がことごとく自分の名前を間違ったせいではない。
 深海にとって、日本に於いてはメジャー過ぎる姓に対し、メジャーな名でないことは十分過ぎる程自覚していたから。
例え毎時間名前を間違われようとも、しかも一縷の望みをかけた国語の教師が真っ先に「しんかい」と呼ぼうと、意地になって「みうみ」と呼ばれるまで返事をしなくて怒られようとも、その程度ではへこむ理由にならないことを、深海は自覚しているから。
深海の足取りが重い理由は、もっと別の所に理由があるのだ。
 例えば、やっと高校生になって意気揚々とアルバイトを探していたのに、早生まれなせいで「15歳はダメ」と断られ続けた、とか。
それがかれこれ7件目になった、とか。
通学先の高校周辺に絞っていたため、そろそろめぼしいお店も無くなってきてしまった、とか。
流石に履歴書に自分史を書くのに嫌気がさしてきた、とか。
その程度のものだ。
 現在深海は、母方の祖母と二人で暮らしている。年齢に比例して週の半分はデイケアやホームに通っている祖母と、寄り添い助け合いながらの生活だ。
母親はまだ深海が幼い頃に前触れも無く失踪し、事故なのか自発的なのか、未だに行方がつかめず、父親はその何年か後に海外赴任になり、今でも日本に帰ってくる気配がない。
意外に高給取りらしい父親は、普通の父親が娘を想うくらいには深海を愛していたから、稼ぎの半分は深海の養育費という名目で、彼女の口座と、失踪した妻の母親、つまり深海の祖母に仕送りをしていた。
 だから、実際には深海が差し迫って働く理由は無いのだ。
むろん、深海がその口座の存在と、そこにある自分名義の金の額を知っていればの話しなのだけど。
 だから、今までは決して高くはない年金の中から祖母がお小遣としてくれていた金額でこと足りていたが、働ける年齢に達したことで、働こうと思ったのに。


「好きで早生まれに生まれたわけじゃないのになぁ…」


 前向き思考になれないのは無理も無い。
とりあえず、望みを託した喫茶店の前に立ち、深海は深呼吸をした。
 とてもこの店の制服が自分に似合うとは思えなかったが、背に腹は変えられない。
最初は履歴書を渡すだけだけれど、気分は『いざ、出陣』とばかりに扉に手を伸ばす。
 だが、それは深海が取っ手を握る前に勢いよく開かれて。


「ぎゃんっ!」


 強かに額を打たれた深海は、奇妙な悲鳴を上げてその場にうずくまった。
何の罠だ、と、涙が滲んだ目で見上げれば、非常に奇妙な風貌の男が視界に入ってくる。
 濃い紫色の、薄汚れたマントを身に纏い、しっかりとフードまで被ったいかにも不審者にしか見えない彼は、深海を見下ろすとごく普通の口調で口を開いた。


「遅かったじゃないか。」


 自分が不審者に見えるなど、微塵も思っていないような口調だ。
彼の怪しげな格好に対して、余りに普通過ぎる反応に、深海はうっかり答えてしまった。


「お兄さん、ひょっとしてエスパーなの?私が今日履歴書持ってくること、知ってたとか。」
「エスパー?いや、生まれてこの方面白いくらい平均並みの能力しか持った覚えは無いけど?まあいいや。時間が無いから、ちょっと来てくれない?」
「ああ、店内で面接は出来ませんものね。分かりました。」


 うっかり会話がかみ合ってしまったのだから仕方が無い。
高校生にもなれば、「お菓子を上げるからおじさんの一緒においで」なんて言われたって着いて行く子供はいないが、七件断られた後に仕事を持ちかけられているような言動をちらつかされれば、うっかり着いて行きたくもなるだろう。
 紫色のフードをかぶったいかにも怪しげな男は、深海が自分の後についてくることに同意したことを確認すると、ごく一般平均より一回りほど小ぶりな深海の身体を、ひょいっと担ぎ上げた。


「ちょっと待って、お兄さん。これって本当にバイトの面接に行くの?なんだか私、セクハラされてない?」
「気のせい気のせい。ちゃんと面接はするよ。するのは俺じゃないけど。」
「え?それじゃあ誰がするの?てか、お店がどんどん遠ざかっていくよ?」
「まあ、こっちの店じゃないしね。言っただろ?テンペランティアって、此処とは違う世界があるって。」
「聞いてない聞いてない聞いてない。」


 パタパタと、深海は両手を顔の前で振ってそれを否定した。
しかし否定したところで、男の足が止まるわけでもない。
 これはもう、何だかラチモンダイに発展しそうなスメルがぷんぷんするなぁ、と。
でもこの体勢からどうすれば飛び降りて、尚且つ逃げ切れるかなぁ、と。
 のんきに深海が逃げる算段を考え始めた瞬間、視界は一瞬にして反転した。
男は深海を担ぎ上げたままでいきなり宙返りをしたのだ。


「ふぎゃっ!」


 思わず踏まれた猫のような悲鳴を上げてしまったのは不可抗力だろう。
危うく舌を噛みそうになったが、まさかラチカンキンしようとしている相手が自分を気遣ってくれるとは思わないから。
 だから盛大に文句でも言ってやろうと口を開いた瞬間、今度は薄い膜に包まれたような感覚が深海を包んで。
反射的に眼をつむったが、その感覚は長くは続かなかった。
 恐る恐る、と言うには程遠い勢いで深海が眼を開けば、視界に広がっていたのは全く持って見たこともない町並みで。


「ひわーっ!世界不思議発見!!」
「何かさ、お前、もうちょっと可愛いらしく被害者的な反応出来ないの?」


 個人的には驚いているからこその反応だったのに、男はげんなりと呟くと、漸く深海をその方から下ろして笑った。


「ようこそ。混沌と調和の街、テンペランティアへ。」