寺島沙里 03 -Traviata-

店の一番奥に位置しているテーブル。
そこはランプの光も充分に届かないせいか、あまり人目につきたくない客の座る場所となっていた。
お忍びで現れた貴族や名の知れた冒険者、日陰を行く商人などがこの席の主な客であり、さすがにお尋ね者が来ることまではないが、他の常連客はみな弁えていてそのテーブルに視線を送ることはしない。
店内が込み合っていても空席であることが多い奥の席には、けれどこの日一人の少女が座っていた。
テーブルの上にまばゆい白光を灯し、三時間前から何やら作業に没頭している彼女は、ふと書き物の手を止めると顔を上げる。若い顔立ちに似合わぬ重々しい溜息をついた。
「疲れた……」
「お前はこんなところで何をやっているんだ!」
「あれ、トールくん」

混沌の街テンペランティアの一角にあるカフェ「トラヴィアータ」。
そこへいつものように休憩をしにやって来た男は、最奥の席が異様なほど白く輝いていることに気付いて様子を見に来たのだ。
あの席に座る人間がまともではないことは今までの経験でも自警団内の情報からもよく分かっている。
だからこそ用心してその正体を見極めるべく近づいたのだが、そこにいたのは魔術師でもなんでもなく、ただの女子高生だった。
何処から持ってきたのか蛍光スタンドをテーブルの上に置いて教科書とノートを広げた沙里は、悪気が微塵も読み取れない目で彼を見上げる。
「何って、宿題をやっているように見えない?」
「この明かりは何だ、この明かりは!」
「蛍光灯です。席空いてたけど暗かったから」
「家でやれ!」
「一応バイト中だったりするのだ」
軽く肩を竦めた少女の発言を確かめる為にトールスが振り返ると、カウンターの中で彼女の叔父が苦笑混じりに首肯する。
そして実際、カウンターの一部にしか客が座っていない今は、バイトのやる仕事があるようには見えなかった。
背後に「ぐぬぬぬ」と書き足したくなるような顔でトールスは顔を沙里の方へと戻す。
「お前なぁ! この席は!」
「この席は?」
「この、席は……」
『要注意人物が座っていることが多いから見回りルートに入っている』などと店主の姪にはとても言えない。
言えたならそれはそれで楽だったのだろうが、トールスはそういう融通のきかない人間であった。
彼はしばらく沙里を睨んだ後「もういい!」と言って店を飛び出していく。
乱暴に閉められた為いつまでもカラカラと鳴っているドアの鐘に、修と沙里は顔を見合わせた。
「トールくんのあれ、なんなの? シュウさん」
「ほっとけほっとけ」
自分の店がどんな人間にどう思われているのか、よく把握しているマスターはさらりと流す。
そうして再び沙里が宿題に取り掛かり始めてから一時間後、奥のテーブルの前には「彼」が立ったのだ。



「その白い光は何かね」
横からかけられた新たな声は、宿題に励んでいた沙里の顔をすぐに上げさせるほど、落ち着いて上品なものだった。
だが彼女はその声が「落ち着いて上品」だったから驚いたわけではない。権威や階級による上からの圧力をまったく別の世界の出来事として考えている彼女は、その程度のことで感じ入ることはまったくないのだ。
だから沙里が珍しく呆気に取られたのは単に声の持つギャップのせいである。
幼い男の子の声―――― しかしそれは、まるで壮年の紳士のような言葉遣いと品格を持っていたのだ。

金の髪に青い瞳。人形のように整った顔立ちは凝った作りの服と合わせて何処か遠い国の王子のようにも見えた。
沙里はシャープペンを持った手でこめかみを掻くと、とりあえず質問に答を返す。
「蛍光灯だよ」
「ケーコ・トーダか」
「戸田恵子?」
たったこれだけの会話で激しく脱線してしまった気がする。
しかし何処で脱線したのか原因を確かめるのは面倒だったので、沙里は「座れば?」と向かいの席を示すとメニューを差し出した。八歳くらいに見える少年は、それを受け取ると日本語と現地語が併記されたメニューの中から、バナナワニパイを選んで注文する。
「バナナワニとは何のことか知っているかね?」
「バナナが好きなワニ」
「ではこれはワニのパイというわけか」
「バナナかワニか確かめないで注文するのはナイス度胸だと思うよ」
実際にはただのバナナパイである。
ただ面白そうだからという理由でワニの形をしているのだが、この茶目っけは日本人にしか通じない。
沙里は自ら席を立ち、バナナワニパイとオレンジジュースを用意すると、それを少年の前に並べた。
彼は絵に描いたような笑顔を湛える。
「ありがとう。来訪者」
「どういたしまして。お客さん」
『来訪者』とは日本からテンペランティアに入ってきた人間を指していう言葉だが、この単語を使うということは彼は日本人に悪感情を持っていないのだろう。この辺りでお目にかかることはほとんどないが、中には日本人を見かけると「害虫」と呼んで憚らない人間もいる。

バナナワニパイを黙々と食す少年を前に、沙里は再び宿題に取り掛かり始めた。
しばらくすると食べ終わったのかフォークを皿に置く音がする。
「来訪者、何の写本をしているのだ?」
「宿題。英文の書き写し」
「そうやって言語を学んでいるのかね」
「全然頭には入ってこないけどね」
沙里にとって書き写しは単なる「書き写し」でしかない。
書き写すことによって頭の中に何かが蓄積されるということはないし、むしろ書けば書くほど記号としての意味が薄れ、形だけが全てに思えてくる。
だからと言って宿題をやらなかったら怒られることは当然。彼女は文句もなくシャープペンを走らせていた。
「来訪者はこの街に住んでいるのだろうか」
「違うよ。通い」
「ならばこの街が好きかい?」
「好きと言えば好き。それよりこの会話はまだ続く? 続くのなら名前を教えて欲しいな、お客さん」
沙里はノートから顔を上げぬまま「私はサリ」と先に名乗る。
少年はそっけない言葉に柔和な笑顔を見せた。そうして彼はストローを持っていた手を放すと
「失礼した、サリー。私はアムル=ヴァイシルトと言う」
と挨拶したのである。沙里は心の中で「おおう」と呟いた。

テンペランティアには大雑把に分けて中央の公的領域を除き、八つの支配領域が存在している。
日本人たちが入り浸っているエリアや冒険者など流れ者たちが集まるエリアをはじめ、その一つ一つは独自のルールと気風を保ちながら全体の均衡をとっていた。
だがその中でもお互いいがみあっている領域というものが二つ、存在している。
その一つがヴァイシルト―――― かつての王家の血を継ぐ貴族たちの領域だ。
同じ貴族のシュヴァルツァと犬猿の仲である彼らは、高慢で居丈高な人間が多いというイメージが周知されているのだが、少なくとも目の前の少年はそうではないらしい。彼は「見てもよいかね」と断ると沙里の英和辞典を取りぺらぺらと捲り始めた。
「アムル少年は散歩で来ているの?」
「そうだね。屋敷にいると狭い世界しか見えない。だから時々このように外を散策することにしているのだ」
「貴族って大変だね」
「私にとってはこれが当然であるから大変と思ったことはないな。来訪者を見ると君たちとの違いに窮屈さを覚えることもあるが」
「そんなもの?」
「その程度のことだよ」
アムルは沙里よりも遥かに年上であるかのように微笑んだ。
その笑顔に彼女がつられて微笑しようとした時、だが白く光るテーブルには新しい客がやって来たのである。

「アムル、探しましたわ!」
焦りと安堵を混ぜ合わせたような声は、不思議とバットを振る音に似ている―――― と沙里は訳の分からない感想を抱いた。
つまり、その女の声は何となく攻撃的な雰囲気を宿していたのだ。アムルは辞書を沙里に返すと「大声はよくない」と女を嗜める。
現れた女は少年と同じ金髪碧眼。年は沙里よりも少し上だろうか。きつめの顔立ちと走りにくそうな青いドレスからして貴族なのだろう。彼女はアムルの注意に少し怯むと、代わりにと言わんばかりに刺々しい目で沙里を睨んできた。
「このような虫がたむろす店に入られて……」
「いらっしゃいませ、お客さん。ムシムシ」
「サリー、ムシムシとは何だ?」
「虫らしい語尾を模索してみたんだけど」
「外の虫は喋るのか。それよりセイラ、人間を虫呼ばわりとは品がない。やめなさい」
たったこれだけの会話でいきなり混沌としてしまった気がする。
沙里は女の横からカウンターを見やったが、修は何が言いたいのかよく分からない顔で首を横に振っただけだった。
アイコンタンクトなどこの叔父と姪に間にはまず成立しない。沙里はあっさり諦めると女に顔を戻した。セイラと呼ばれた彼女はそれに応えるかのように口を開く。
「ところであなた、なぜアムルの前に座っているの?」
「戸田恵子の吸引力かな」
「トダケイコ?」
「サリーはこの店に勤めている。何をしているのか気になったので私が邪魔をしたのだ」
「使用人?」
セイラの声は埃を見つけた意地悪姑のように輝いた。背を逸らして沙里を見下ろす。
「使用人が客を立たせて座っているとはいい度胸ね。どういうつもり?」
「ああ。そう言えば私、ウェイトレスだったっけ」
宿題に集中しすぎて忘れてた、と沙里が呟くとカウンターから「勉強優先でいいぞ」と声が飛ぶ。
叔父からの適当な援護射撃を受けて、彼女はテーブルの上を簡単に片付けると席を立った。セイラに自分の座っていた席を示す。
「ではどうぞお客さん。思い切りふんぞり返りながら注文聞きますよ」
「見下ろさないで頂戴!」
「無茶言わないでください」
激しく噛みあっていない諍いに、いい加減終止符を打つべきだと思ったのはアムルだったらしい。
彼は立ち上がると「邪魔をしたね」と苦笑した。テーブルに代金を置きさっさと店を出て行こうとする。
まだ沙里に何か言いたげな顔をしながら、しかし慌ててその後を追うセイラを沙里は頭を掻きながら眺めた。一応ウェイトレスらしく声をかけてみる。
「あのーお客さん未満のお姉さん」
「何よ!」
「スカートの後ろ、破けてますよ。パンツ見えてる」
「…………」
店の中に立ち込める静寂。
おそらく彼女が入ってきた時から気付いていたのであろう修は視線を逸らし、アムルは目を丸くして振り返った。沙里はまったく変わらぬ表情で、硬直したセイラを見つめる。
思いもかけない事実はセイラの自尊心を激しく傷つけたらしい。彼女は手で自分の服を探り、それが事実だと分かると震え始めた。涙を湛えた目で沙里をねめつける。
「こ、こ、このことは黙っていなさい! いいわね!」
「別に黙っててもいいんですけど、ここに来るまでに散々パンツさらしてきたのは変えられない事実ですよね」
「…………」
「あ、でもそんな気にしなくていいと思いますよ。パンツなんてみんな履いてるし」
「……パンツを曝してる女なんていないじゃない!」
「たまに冒険者の人がパンツ見せてるのか違うのか分からない格好してますけど」
「下賤の者と一緒にしないで! 貴族でパンツ見せてる女が何処にいるっていうの!」
「今、私の目の前にいらっしゃいます」
「わ、私を抜きなさいよ!」

それなりにお年頃ではないかと思える女二人がパンツパンツ言い合っている光景は、その場の他の人間を黙らせるに充分な威力を持っていた。
セイラの青い瞳にどんどん涙がたまり、零れ落ちそうになっていく。
その様子に気付いたアムルは大きく息を吐くと自分の上着を脱いだ。彼女に向かってそれを差し出す。
「とりあえず、私の上着を腰に巻いておきなさい。さあ帰ろう」
「ア、アムル……」
彼女はスカートの後ろを隠すように少年の上着をウエストに巻いた。
店を出て行く彼を追って踵を返し―――― だが首だけで沙里を振り返る。
「い、一応ありがとうって言っとくわ」
「どういたしまして、お姉さん」
カラカラとドアの鐘が鳴り、二人の姿は店の外へと消えた。
途端にまた静寂に包まれる店内で、修が呆れ気味の声を上げる。
「沙里、貴族相手に傍若無人は危ないぞ」
「でも宿題より面白かったよ」
さすがに混沌の街だ。老成した少年に会うこともあればパンツ見せてるお嬢さんに会うこともある。
沙里はこの日の出会いにいたく満足して宿題を終えると、いつも通りの日本へと帰っていったのだった。