勇者イサギの魔王譚 イサギVSラストリゾート(試し読み)

 バリーズドには、プレハの容態は心配する必要はないと伝えておいた。彼は「あの嬢ちゃんがそんなやわなわけねーもんな」と楽観的に笑っていた。
 翌日、冒険者ギルド本部から帰ってきたイサギが見たのは、昨日のようにリビングで書類に向かっているプレハの姿だ。この時点では、特に違和感を覚えなかった。
「ただいま、プレハ」
「あ、おかえりなさい。ごめんね、昨日もきょうもちゃんとお出迎えできなくて」
「いいんだ、体を休めるための静養だろ? 座っていてくれ」
 外套を脱ぎながら告げると、プレハは含み笑いをした。
「ありがとう。優しいね、イサギは」
「俺が生涯でただひとり愛そうと誓った女のためだからな」
「すぐそうやってかっこつける」
 くすくすと笑うプレハに、火照った頬を見られないように顔を背けるイサギ。
 ふと見ると、テーブルの上の書類があまり減っていなかった。いつものプレハなら三時間もあればチェックし終えてしまうようなものなのだが。
「なんだ、きょうはずっと寝ていたのか? いや、それならそれでいいんだ。疲れを取ることが目的だからな。目的を達成しようというのはいいことだ。素晴らしい」
「ん、そういうわけじゃないんだけどね……」
 歯切れ悪く微笑むプレハに、イサギは首を傾げる。
「あ、それよりこれのことなんだけど!」
「ん」
 まるで話をごまかすように大きな声を出す彼女の元へと近寄り、その書類を覗き込む。
「ああ、ブルムーン王国王都の冒険者ギルドの、下水道工事を推し進めるための計画書だな。工事の計画責任者の手配が少し遅れているらしい。日程の修正のための書類だ」
「あ、そうだったんだ。うん、ありがと」
 プレハは礼を言うと、再び書類に目を落とした。
「……」
 なんだか様子がおかしいと感じた。
 プレハは同じ書類を何度も読み返している。やはりまだ体調がよくないのだろうか。
 傍目には普段と変わっているところはなにもない。美貌も相変わらず、星のようなきらめきを放っている。やはりただ疲れているだけなのだろう。
「プレハ、仕事はその辺りにして、あとはゆっくりと休もうじゃないか。根を詰めすぎるのはよくないぞ。剣だって斬りすぎれば斬れ味は鈍るんだ。お前はちょっとがんばりすぎるからな」
「ん……、ありがと。でもあとこれだけだから、なんだったらイサギは先に休んでて?」
「そういうわけにはいかないな。夫婦となった俺たちは、苦労も喜びも分かち合うって誓ったんだからさ。プレハが終わるまで俺は俺でなんかの仕事を探してやっているよ」
「もう、イサギってば……、じゃあほら、先に着替えてくるといいよ」
「ああ、そうさせてもらおう」
 自室で冒険者ギルドの制服から普段着に着替えてくると、プレハはまだ同じ書類とにらめっこをしていた。やはり変わったところはないように思う。が――。
「あ、イサギ、ちょっといい? この書類なんだけど」
「え?」
「これってなにについての計画書かな」
 イサギは騒ぐ胸を押さえる。それはつい数分前に聞かれたばかりのことだ。
 聞き逃しただけだろう、そうだ、こんなことは誰にでもある。ただの日常だ。
 イサギはごく自然に見えるように振る舞いながら、丁寧に言い直す。
「……それは、ブルムーン王国王都の、下水道工事の日程を変更するための書類だよ」
「ああ、そっか、工事の責任者の手配が遅れているんだね。うん、ありがと」
 振り返ってきてにっこりと微笑むプレハの笑顔に、曇りはない。暗雲が立ち込めているように感じてしまっているのは、イサギの錯覚だろう。きっとそうだ。
 なぜなら、自分とプレハは神族の野望を打ち砕き、完膚なきまでに幸せを手に入れたのだから。なにか間違いなど起きるはずもないのだ。
 プレハが再び振り向いてきて、イサギに問う。
「あ、おかえりなさい、イサギ」
 その美しい笑顔を前に、イサギは息を呑む。
 ――おかえりなさい?
「さっそくでごめんね、この書類のことなんだけど――」
 イサギの顔を見たプレハもまた、口をつぐんだ。
 瞬きを繰り返す彼女は、手元の書類とイサギを見比べる。
 聡明なプレハは恐らく、イサギが醸し出す雰囲気によって気づいてしまったのだ。
 空虚な間を埋めるように、えっと……、と意味のないつぶやきを漏らす。
 だがすぐに、観念したかのように首を振った。
「……もしかしてあたし、なにか変なことを言っている?」
「プレハ」
「ごめんね、イサギ。やっぱり少し疲れているのかも。自覚なかったけど、きょうは早めに休もうかな。書類も、ちっとも進まないし、ね。あはは……」
 笑ってごまかそうとするプレハの変調を、イサギは大げさなまでに受け止めた。
 いくつもの悪夢が脳裏をよぎり、だがもう大丈夫なはずだろうという思いとぶつかり、白刃を散らした。その結果やはり優ったのは不安感であった。
 イサギはプレハの足元にひざまずくと、彼女の白い手を握り締める。
「お前の体になにか異変が起きているのは間違いない。まずはそれを確かめるところからだ。大丈夫だ、プレハ。俺がついている。なにも心配はいらない」
 なによりも、それだけは告げたかった。
 もうこわいものはなにもないのだと。
 俺がついているのだと。
 正面からそう言うと、プレハは眉尻を下げながら申し訳なさそうに微笑んだ。
「うん、ありがとう、イサギ」
 プレハの病状がいったいなにに該当するものなのか、そのために彼女は改めて王宮治癒術師たちの診察を受けることになった。