第六話 こいびとごっこ、しませんか?

 藤井ヒナは教室の窓際の机に頬杖をつきながら、外を眺めていた。
「はぁ……」
 休み時間、アンニュイなため息がヒナの唇から漏れる。
「……『恋』かあ……」
「ヒナちゃん、きょうはなにをしているのー?」
 ニコニコとやってきた美卯をちらりと見て、ヒナはすぐに校庭へと視線を移した。
 美卯は小さく首を傾げて、いつもの一人遊びをしていないヒナに尋ねる。
「ぼーっとしているの? 珍しいね、ヒナちゃん」
「……うん、美卯ちゃん」
 ヒナは骨がノドに引っかかったような笑みを浮かべていた。
 そんなヒナを見て美卯は、(そうしていると、なんだかヒナちゃんがヒナちゃんじゃなくて、いいところのお嬢様みたい)と少し失礼なことを思う。
 実際、普段のアホの子のような笑顔と違い、今の陰りのあるヒナの表情はクラスメイトの何倍もオトナびて見えていた。あいりに匹敵しそうだ。
「……悩み事があるんだったら、美卯聞くよ? ヒナちゃん」
「うん、ありがと。でも、大丈夫」
 その申し出にも、力なく手を振るぐらいのヒナ。
 美卯の心臓の鼓動が早まってゆく。ヒナちゃんがなんか普通じゃない! だ。
「も、もしかしてなにか悪いものを食べたの? 大変なことが起きたの? お金足りないんだったら、ちょっとぐらいなら貯金箱に……ね、ねえ、ヒナちゃん……!」
「えへへ」
 肩を掴む美卯に体を揺さぶられながら、ヒナはやはりいつもとは違う雰囲気を漂わせている。
「あのね、美卯ちゃん」
「うん、うんうん!」
「『恋』って、なんだろう、ね……」
「わ、わかった! 美卯、先生呼んでくるね! まさかヒナちゃんがそんな乙女みたいなこと言うなんて、ゼッタイどこかおかしいに決まっているもん!」
「わたしね、すごく好きになったことには、ワーッといつもすぐ熱くなっちゃうんだ」
「う、うん」
 とりあえず大人を呼ぶよりもヒナのそばにいるほうが大事だと思った美卯は、ヒナの手を握りしめながら一生懸命うなずく。
「なんでもね、ずーっとやってて、それで、ずーっとやってたら、そのうちもういっかなって思っちゃって。それよりずっと楽しいことが見つかるんだよね」
「そ、そうなんだ。うん、わかる、わかるよヒナちゃん」
 美卯の相槌は友達の悩みを聞くというよりも、立てこもり犯の説得を試みるネゴシエーターのような必死さがあった。
「でもね、『恋』ってどうすればいいのか、ゼンゼンわからないの。わかんないから、わたし、恋のこと、もっともっといっぱい知りたくなってきちゃうの」
「ヒナちゃん……」
「マンガもたくさん読んだんだけどね、全部、恋の形が違っていたの。だからもしかして、恋って人の数あるのかもしれないんだ。きっとわたしにも、わたしの恋の形があるはずだから。ずっと考えてたの。どうすればいいか。どうすればいいのかなあ」
 遠い空に向かって微笑むヒナの表情は、なんだかとっても儚く見えた。
「……って、たぶんこれって、人に聞いてもだめなんだと思うんだ。だってわたしの恋は、わたしにしかないもんね。えへへ……なんだか、ごめんね、美卯ちゃん。相談に乗ってもらっているのに、勝手なことを言って」
「う、ううん、いいの!」
 これが相談かどうかというのは疑問だったが、美卯はヒナの両手を握り、ブンブンと首を振った。ヒナはおかしくなったわけではない。彼女は今、少しずつ大人になろうとしているのだ。
 まるで幼稚園児や単細胞生物のようだったヒナが、だ!
「美卯、応援しているから、ヒナちゃんのこと!」
「えへへ……ありがと、美卯ちゃん」
 前に進もうとするヒナのことを、美卯は見守ろうと決めた。それがどんな結果になろうとも。友達として。

 かくして、ヒナは考える。
 名刺作戦はふみやの手によって阻止されてしまった。ヒナにはよくわからないけれど、あれはずいぶんといけないことだったらしい。騒ぎを起こしてしまったからだろうか。
 あれほどの多くの人たちに囲まれて、みんなすごく良い人で、ヒナも嬉しくなったけれど、しかし結局、あいりや少女漫画の言うような『トクベツ』な感覚は得られなかった。
 一目あった瞬間に恋に落ちるような、そんな運命の相手はいなかったのだ。
 もしかしたらこの方法は間違っているのかもしれない、とヒナは薄々感づいていた。
 となると、同じことをもう一度しても仕方ないだろう。ふみやにも怒られてしまうし。
 なにか、アプローチの方向を変えてみるべきだ。
 例えばそう、あの少女漫画みたいに、最初はなんとも思っていなかった男女がある日突然一つ屋根の下で暮らし始めたことをきっかけに、お互いを意識し始めて、やがて『恋』に発展していくような、そんな物語を試してみるのはどうだろう。
 一目惚れではなく、じっくりと育てる恋。そう、言うなればアサガオの観察のように。
「えへ、えへへへ……えへへへ……」
 漫画の内容を思い出しながら、ヒナはにまにまとした笑みを浮かべる。
 このふわふわとした気持ちはきっと、『恋』の種に違いない。
 それならば、これを育ててみるべきだ!

『恋』というものは不定形だ。
 もしこれが折り紙や詰将棋のように、ひとりで道を極められるものだったら、ヒナがこれほどまでに熱中することはなかっただろう。
 見つけようとしても目に見えず、探そうとしても掴めない。
 だから一週間経過した今でも、飽きっぽいヒナの興味が継続しているのだ。
「よーしっ!」
 思い立ったが吉日。ヒナは勢い良く席から立ち上がる。そうと決まれば、まずは誰かひとりを選ばなければ。
 ヒナは教室の人たちに視線を走らせる。とりあえずはお友達なら誰でもいいかな、と思っていると、たまたまクラスに残っていた健二と目が合った。呼びかける。
「ねえねえ、健二くんー」
「なっ、なに?」
 ぱちぱちと瞬きをしながら見つめていると、それだけで彼の顔色が赤く染まってゆく。ヒナはあまり迷いもせずに、尋ねた。
「健二くん。わたしと『こいびとごっと』してみない?」
 まずは形から入ってみよう、とヒナは考えた。同じシチュエーションを体験すれば、勝手に恋が芽生えるかもしれないのだと思って。
「えっ!」
 火がついたかのように耳まで真っ赤になる健二。彼は教室を見回すと、その隅っこに慌ててヒナを引っ張ってきて、声を潜めつつも勢い良く問いかけてきた。
「な、なにそれ! どういう、どういうこと? 詳しく、詳しく聞かせてもらおうじゃないかお嬢さん!」
「えっと……その、オママゴトみたいなもの、かな?」
 彼の必死さに若干困惑しながらも、ヒナは答える。小学生の女子が男子をオママゴトに誘う。あいりに言わせれば『こどもっぽい』ことなのかな、とヒナはちょっとだけ思う。
 しかし健二はなぜか鼻の穴を広げながら、ブンブンと二度ほどうなずいた。
「う、うん、いいよ! いいよ! ヒナちゃん! こちらこそお願いしたぐらいだよ!」
「わーい」
 ヒナもまた手放しで喜ぶ。その姿を見て、健二は勝利を確信したかのように、ガッツポーズを取っていた。
 しかしそのとき、ヒナの頭の中に計画されていた『ごっこ』の内容を、健二はまだ知らないのであった……。

 その日の放課後、学校終わってすぐ、ヒナは生贄のようにのこのことついてくる健二を連れて、寄り道をしていた。
「あの、ヒナちゃん、ここ……」
 健二は青い顔でガチガチに緊張している。
 彼と並んで座りながら、ヒナはA3サイズのラミネートされた紙を代わる代わる眺めていた。
「やっぱり、ユニットバスはいやですよねえ。1LDKか、あるいは2Kで手頃なのがいいんですけれど」
「そうかいそうかいヒナさん、それならここはどうだい? ちょうど余っててな。家財道具も前のやつらが夜逃げしたのがそのままそっくり残っているから、使えばいいぜ」
 強面の男が太い指で差してきたそれに、ヒナもご満悦のご様子だ。
「あ、これいい。日当り良好、それに学校も近いです。ね、健二くん、ここにしましょう?」
「あう……」
 ランドセルを背負った健二はなにも言えずに、ただこくこくとうなずいている。
 男は以前、ヒナの信者になった不動産屋の社長である。きょうはヒナの頼みということで、こうして直々に店に出てきたのだ。
「ありがとうございます、谷口さん」
「なあに、ヒナさんの頼みとあらば火の中水の中。俺にも恩を変えさせてもらわねえと」
「えへへ、いいこいいこです」
 ヒナが背を伸ばして頭を撫でると、谷口の顔はたちまち真っ赤になった。
 彼はそっぽを向いて鼻をこする。
「よ、よせよ。ヒナさん、照れるじゃねえか……。じゃ、じゃあ早速案内するぜ。電気ガス水道はこっちでやっといてやらあ。きょうから入居でいいんだな?」
「はい、お願いします。ね、健二くん、行きましょう」
「あうあうあう」
 ぴょこんと椅子を降り、ヒナは置いていたランドセルを背負い直すと、健二の袖を引っ張ってゆく。
 健二の様子はもはや売られてゆく子牛のようだった。
 
 
 ――さらに、夕方。
 ふたりきりの新居を見回して、ヒナは満足そうにうなずいていた。この家で健二とふたりで、互いに支えあって生きてゆくのだ。
「うん、きょうからここで暮らそうね、健二くん」
「あ、あの……」
 昼間はあれほど元気だった健二が、なぜか顔色を青くしている。
 ヒナは心配そうに彼の顔を覗き込む。
「どうしたの? 健二くん、具合でも悪い?」
「いや、その、ぼく……ヒナちゃんのことは、その、す、き、だけど……この展開にはさすがにドン引きっていうか、そろそろおうちにも帰んないと、っていうか……」
「おうち? なにを言っているの? 健二くんのおうちはきょうからここでしょう?」
「えっ、ち、ちがうよ……お父さんとお母さんが、いるところだよ……」
「帰る場所なんてないよ。わたしと一緒に暮らそ? ね?」
 この発言には、ヒナのことを快く思っている健二もさすがに唖然とした。
 小学生ふたりで生きていこうと言われて、いくらなんでも無茶だと思う。
 もともと逃げグセのついている健二がヒナの発言に耐えられるはずがないのだ。しかしヒナは、彼を安心させようと微笑む。
「だいじょうぶだよ、わたし、お料理だってお洗濯だって、お掃除にお買い物もがんばるから。いっぱい勉強してきたんだよ。本だってたくさん読んできたし。健二くんのために、がんばって『こいびと』するから、心配しないで、ね?」
 けんじは逃げ出そうとするけれど、ヒナは彼の手を掴んで離さない。
 まるでダメ押しのように、ヒナは笑顔を浮かべた。
「ね、けんじくん。『こいびとごっこ』だよ! やめるときも健やかなるときも、ずっと一緒にいるんだからね! そう、死がふたりを分かつまで、ね!」
「うわぁぁぁぁぁぁん!」
 ついに健二は泣き出してしまう。
「がえるううううううううう! ままー! ままー!」
「えっ、えっ、健二くん、それってどういうシチュエーションなの? わたしわかんないよー!」
 頬に手を当てて困るヒナと、本能のままに泣き喚く健二。
 血相を変えたふみやがGPSを頼りに駆け込んでくるのは、それから三十分後のことであった。

「ヒナ――――ッ!!」
 絶叫しながらやってきたふみやはドアを乱暴に開ける。
 廊下の先からきょとんとしたヒナが、巣穴から頭を覗かせる小鳥のように顔を出してきた。
「あれ、お兄ちゃんどうしてここに?」
「どうしてじゃねえよ! なんだよこのメール!」
 ふみやが突きつけてきた携帯電話に表示されているのは、ヒナからのメールである。
『保証人っていうのが名前だけ必要らしいから、お兄ちゃんの名前貸してね。大丈夫大丈夫、なにも心配いらないから。本当に大丈夫。安心だから。絶対大丈夫。なにも心配しないでね。安心なんだから』
 ヒナが先ほど送ったものだ。
「心配いらないって言ったのにー!」
「無茶! なんだよこの文面は! 保証人ってこえーよ!」
 そんな風にヒナとふみやが言い争っている間に。
「うわあああああああああ!」
 健二はランドセルを背負ったまま一目散に外に飛び出していった。
 ふみやは呆気に取られて、去っていった方向を見やる。
「……なんだあれ」
「健二くんだよ?」
「……おまえ、誘拐とかしたんじゃないよな」
「そんな悪いことしないよ!」
 きっぱりと否定されるものの、どうだろう、とふみやは疑わざるをえない。
 ヒナのことは可愛い姪だと思っている。けれど、あの名刺事件以来、ふみやは考えを改めた。ヒナはただの無害な小学生ではない。時にはオトナを遥かに上回る行動力を見せる怪物なのだ。
 まあ、今はヒナの分析はいいとして、ふみやは部屋を見回す。
「それよりもさ、なんだよここ、誰の家だよ。さっきの健二くん家か?」
「ある意味そうかな。借りたんだ、わたし」
「はあ? 小学生がどうやって! ていうかお金は?」
「谷口さんがいらないって。代わりにときどきでいいから、いい子いい子してほしいんだって」
「誰だよ谷口さん!」
 ふみやは髪をかきむしった。
 わからない、全然わからない。ヒナの生活する世界は、ふみやの思う世界とはだいぶ違っている。常識がズレている。
 ふみやはぜえぜえと息を切らしながら、ヒナの手を握る。
「わ、わかった。とりあえずそこらへんの話は家に帰ってからだよ。行こう、ヒナちゃん」
「……」
 じーっと見つめられて、ふみやはわずかに怯んだ。
「な、なんだよ、ヒナちゃん。どうしたの、お兄ちゃんをそんなに見つめて」
「……ねえねえ、お兄ちゃん」
 ヒナに裾を引かれ、上目遣いに熱い視線を浴びて、ふみやは思わずドキッとしてしまう。
「健二くん帰っちゃったし……」
「な、なに?」
 どうせまた無茶な頼みごとをしてくれるのだろう。だがふみやはもう高校生。つまり大人だ。大人は小学生の言うことなどは聞かないのだ。なにを言われても突っぱねてやろうという確固たる決意が、ふみやの中にはあった。金城鉄壁だ。
 さて、ヒナがなにを言い出すのか。聞いてやろうじゃないか。そしてむげに断ってやろうじゃないか。自分がヒナを甘やかしてばかりなのがいけなかった。心を鬼にしてやるのだ。
 腕組みをするふみやに、ヒナは微笑みながら問う。
「お兄ちゃんが代わりに、わたしと『こいびとごっこ』してくれる?」
「――する」
 気がついたときには、ふみやはそう答えてしまっていた。
 仕方ない。小学生は最高なのだ。

「あ、ごめん母さん? うん、大丈夫、今ヒナちゃんと一緒。おれしばらくこっちで暮らすから。うん、へいきへいき。学校も通うし。あとで着替え取りにいくから、うん、じゃあ」
 ガチャリと電話を切り、ふみやは大きなため息をついた。
「……おれは、本当にこれで良かったのだろうか……」
 やってしまった、という後悔の念に襲われる。
 というかそもそも、小学生にタダで部屋を貸すなんて、どう考えてもおかしいはずなのに、『ああ、谷口さんとこの。なら大丈夫ね』だとか言われた。
「誰だよ谷口さん……」
 津波のように、ネガティブな感情に襲われてしまうふみや。
 両親に許可を取ったとはいえ、小学一年生の女の子と一つ屋根の下で暮らす? そんなことが道義的に許されるのだろうか。
 大体、家を借りたらもう『ごっこ』では済まないだろう。
 先ほどはヒナのあまりの可愛さに我を失ってアッパラパーになってしまったけれど、改めてここは年長者として彼女を叱るべきではなかっただろうか。
 目先の欲に溺れるのではなく、ヒナを正しい道に導くのが『兄』としての役割ではないか。
「そうだ、おれは……おれは……!」
 拳を握り、ふみやは思わず立ち上がった。今からでも遅くない。
 ヒナを説得するのだ。
 そうしてふたりで谷口さんのところへゆき、部屋を返して、日常へと戻るべきだろう。
「たとえ、ヒナちゃんに嫌われようとも……! それがおれの、おれなりの彼女への接し方じゃないのか……?」
 そうだ。そうしよう。体を張って名刺事件を止めたときのように、甘やかすだけが愛ではない。彼女のことを思っているからこそ、ふみやは鬼になるのだ。
 ――そのとき、ふすまが開いた。
 隣の部屋で着替えていたヒナが、恥ずかしそうにはにかみながらこちらを覗き込んでいる。長い黒髪をツインテールにまとめて、彼女は袖の長いパジャマを着ていた。
 潤んだ瞳は蛍光灯の明かりを反射し、水面のように澄んで、輝いていた。
 汚れなき清楚な妖精は、心の底から嬉しそうな笑みを浮かべる。
「きょうから、よろしくお願いします、ね……えへへ、お兄ちゃん」
「お兄ちゃんに任せておけ!」
 ふみやは魂を売った。
 ――この瞬間、ヒナはふみやにとっての、幼き妖艶なる小悪魔であったのだ。