愛しい手

mudan tensai genkin desu -yuki

約束した時間に彼が起きてこないということは、決して珍しいことではない。
むしろその約束が昼前だった場合、起きないことの方が多いのだ。
その度にオーレリアは、まるで年下の弟にでも説教するように、大幅に遅れて起きてきた彼に苦言を呈するのだが、今日はどうしても今、起きて欲しかった。
彼女はすっかり支度を整えて彼の部屋の扉を叩く。
「トラヴィス! 起きて頂戴! 今日は出かけるって言ってあったでしょう!」
取っ手に手をかけると鍵はかかっていないようである。
オーレリアは数ヶ月前こうして彼の部屋に怒鳴り込んで、見も知らぬ女性と出くわして嫌な思いをしてしまったことをつい思い出した。
―――― だが、今日はどうしても譲れない用事があるのだ。
彼女はいくら扉を叩いても反応がないと分かると、意を決して取っ手を引いた。薄暗い部屋へと足を踏み入れる。
「トラヴィス……起きてよ」
気配を探りながらオーレリアは寝室の扉へと近づいた。
広く豪奢な空間には何の気配も感じられない。全てが冷たい水に浸されているかのような静寂があるだけだ。
彼女は緊張して奥へ続く扉に手をかける。
思い出して数度叩いてみたが、返事はなかった。オーレリアはそっと扉を押してみる。
「トラヴィス?」
窓は締め切られ、厚布が引かれていた。
目を凝らして中を見回した彼女は、寝台で眠っている男に気づくと腰に手を当てる。
そのままつかつかと歩み寄り、オーレリアは男の肩を叩いた。
「ちょっと! 起きて頂戴! 約束してあったでしょう!」
「……あー?」
背を向けていた男は不機嫌そうな声と共に振り向く。いまだ覚醒していない黒の眼がオーレリアを見上げた。
「約束? したか?」
「したわよ! マウル伯爵のところへ蔵書を借りに行くって言っておいたでしょう!」
「何だ、そんなどうでもいい用事かよ」
舌打ちして前髪をかき上げる男の腕を、オーレリアはぴしゃりと叩きたくなった。
だがそれをしないでいるのは、まだ手を上げるには早いという理由と、彼が裸なので抵抗を感じているが為であろう。
十二歳の彼女は子供に言い聞かせるようにはっきりと、魔族の王に苦言を呈した。
「お願いだから起きて。後見人が一緒でないと非常識と思われるんだから」
「うるせー奴らだな、貴族っていうのは。あとで記憶操作かけてやるから気にすんな」
「記憶操作は要らない。あなたが起きてくれればそれでいいのよ。約束の時間に間に合わなくなるわ」
「転移すればいい」
「トラヴィス!」
軽く腕を叩こうと振り上げた手。しかしそれは思った通りの効果をもたらす前に、男の手によって阻まれた。
手首を掴まれたオーレリアは、そのまま寝台に引きずり込まれて悲鳴を上げる。
「トラヴィス! 服に皺が出来るじゃない!」
「ほんと人間ってのは細かいことを気にするな。どうでもいいだろ」
「よくないわよ! あなた裸だし! 服を着て支度なさい!」
「はいはい」
少女の小さな体を腹の上に乗せて手を回していた男は、ぎゃんぎゃんと繰り出される説教がようやく堪えたのか彼女を隣に転がした。欠伸をしながら寝台を出て行く。
その背を見送ったオーレリアは、寝台の上に座るとドレスが皺になっていないか確認した。赤くなる顔に、自分でも嫌気を感じて頬を押さえる。

待っていた時間は十数分ほどであろう。しばらくして戻ってきた男は、何処から見ても非の打ち所のない貴公子だった。
完璧すぎる美貌に、オーレリアは複雑な感情を抱いて男を注視する。
「あなたって……」
「なんだ? いい男だろ?」
「……約束を忘れないでいてくれたならね」
恭しく差し出された手。
少女は忌々しく思いつつも、自ら望んで己の手をその上に重ねる。
吊りあわない時を生きる二人の道筋。それはこの時まだ、僅かに始まったばかりであった。