嘆息

mudan tensai genkin desu -yuki

崩れかけた露台は荒野に面して風通しもよくひらけている。
乾いた風は砂塵を含んで、彼女にかつて夢の中で見た景色を思い出させた。
欠けた欄干の上に座るティナーシャは、舞い上がる髪を押さえて、遥か遠くに見えるもう一つの城を眺む。
それは彼女の夫が昔、皇帝として築いたもので、今は帝国の離宮の一つとして使われていた。
何処かの窓硝子が日の光を反射しているのか、小指ほどの大きさの離宮は白い輝きを辺りに振りまいている。
魔女は何とはなしに手をかざして、その光を顔の前で遮った。
不意に背後から男の手が伸びてきて、彼女の髪を引く。
「何をしてるんだ?」
「オスカー」
いつの間にか後ろに来ていた男は、露台の端に座る女の頭を軽く叩いた。
今にも崩れ落ちてしまいそうな高み。だが二人のどちらもがそのことを気にしていない。
ティナーシャは素肌の上に長衣を羽織っただけの姿で微笑すると、眼下の荒野を指した。
「ここ、荒れ野に戻ってしまったんですね」
「ああ。水を供給しきれなくなったみたいだな。一時期は大分緑が増えていたんだが」
かつて荒野であり今荒野である場所はけれど、彼がこの城に住んでいた一時、周囲に鮮やかな緑を広げつつあった。
それはどのような状況でも諦めようとしない、彼の精神を象徴する一つで、だが彼がこの大陸を離れてしばらく、城の放棄と共に元の枯れた大地に戻ってしまったらしい。
時の流れの無常に慣れきっている男は、少しの寂寥感をもってかつての居城を見下ろした。
魔女の声が、風の中を響く。
「緑に戻しましょうか?」
何ということのないように問うティナーシャは、白い人差し指で乾いた土地を指した。
爪先に灯る構成。それを見てオスカーは苦笑する。
「いや、いい。必要であれば人がそれを為すだろう」
「貴方は優しいですね」
「そうか?」
女は言葉ではなく微笑で答えた。
擦り切れた年月に漂白されたかのような貌。オスカーは、ずり落ちかけた彼女の長衣を肩にかけなおす。
もはや人々に名前すらも伝わっていない魔女は、愁いを込めた声で呟いた。
「貴方はやはり滅ぼしませんでしたね」
「何のことだ?」
「忘れましたか? 私が別の人間のもとに嫁いでいたら、その国を滅ぼすって言ってたことを」
「……ああ」
そう言えば、遥か昔に戯れでそのようなことを口にした気がする。
オスカーは多少の決まり悪さを覚えて、だがそれを表には出さなかった。
懐かしい香り。砂塵と花の香が混じり合う風に、彼は苦笑を零す。
「結婚してなかったからな。あれで滅ぼしたらお前に怒られる」
「滅ぼす気なんてないんでしょう。たとえ私が誰かの妻になっていたとしても。
 ―――― 貴方はそういうことが出来る人じゃないです」
「ティナーシャ?」
彼が怪訝に思って妻の顔を覗きこんだのは、誰よりも彼女のことをよく知っていたからだ。
普段と変わらぬ穏やかな笑み。落ち着いた声。
けれどそうでありながら、ティナーシャは嗚咽もなく泣いていた。頬を濡らす滴に、乾いた塵が吸い寄せられる。
「私を殺してよかったんです。貴方にはその権利があるんですよ。
 貴方を裏切る私には塵ほどの価値もない。斬り捨てて―――― 」
「ティナーシャ」
更に何かを言い募ろうとする女を、オスカーは後から抱き上げた。
いつか子供の彼女をそうしたように、腕の上に座らせる。
ティナーシャは目を閉じてまた涙を零した。その様子に男は顔を顰める。
「お前な、まず自分がしないことを俺にさせようとするな。あと落ち着け。お前は俺を裏切っていない」
「同じことですよ」
「違う。それが分からないほど俺は暗愚に見えるか?」
厳しい口調で返すと彼女は沈黙した。オスカーは萎れた彼女が縮こまると、小さな頭を叩く。
ティナーシャは、子供の頃に戻ったかのように弱々しく呟いた。
「私は……自分の弱さが許せません」
「俺が許してる。お前はちゃんと人間を好きでいろ」

その方がずっといいと、彼は思う。
人を憎み人を遠ざけ孤独に生きるより、人の温もりを欲し人と共に生きる方が余程いい。
今は人外となった彼らは、だからこそ、かつて抱いたその感情を忘れるべきでないのだ。
幼いリウクレアは、一人が淋しくて仕方なかった。だから差し出された手を取った。
それは渇えた子が水を飲むようなもので、責めるようなことではないと彼は思う。
むしろそのような飢えを彼女に味わわせてしまった事実の方が、彼にはずっと堪えるのだ。
一度は確かに彼の傍で、何不自由なく幸せに育ったこともあるというのに。



乾いた砂は、失われた時代のことを思い出させる。
積み重なる遠い記憶。オスカーは震える背中をそっと撫でた。
彼の肩に顔を埋める女は、掠れた声で呟く。
「私……アカーシアが羨ましいです。決して貴方から離れない……裏切ることもない」
「別の存在でいてくれ。何処へでも必ず迎えに行く」
悠久の時に少しずつ降り積もっていく約束。
細い体を抱き締めると、ティナーシャは声を殺して泣いた。









ひとしきり泣いた魔女は、それで幾許か落ち着いたらしい。
彼に改めて謝罪すると、腫れた顔に濡れた布を取り寄せて当てた。
その様子を見ていたオスカーは、少し悩んだが結局教えることにする。
「ティナーシャ、今更言うのもなんだが」
「はい」
「お前、万が一別の男と結婚したら気をつけろよ。と言っても意味はない気がするが一応忠告はしておくぞ」
「何がですか」
「いや……」
はっきり言うべきかどうか、いまいち決断がつかないが、放置しておいてもいい問題のような気がする。
オスカーはほんの一滴の大人げなさをもって、遠回しに告げた。
「昔、寝室にセクタ置いてたことがあっただろう?」
「ありましたね。お仕置き用とか言って。貴方外でも持ち歩いてませんでしたか? よく嵌められました」
「よし、その理由をちょっと改めて考えてみろ」
「……はい?」
表情に疑問符を浮かべる妻を置いて、オスカーは一人で城の中へと戻る。
しばらくして遠くから「ええええええ!?」という絶叫が聞こえてくると、彼は喉を鳴らして笑い出したのだった。