遠い微笑

mudan tensai genkin desu -yuki

緑の丘から見下ろす風景は、果てなく美しかった。
広がる空と草原。ニースはずっと自国のその景色を愛していた。
郷愁の源泉たる風景を眺める為に、彼はよく暇を見ては城都の西にある丘へと通っていたのだ。老いた王として死すその日まで。
何十年も繰り返し眺めた情景。
その中には、けれど一日だけ血と鉄によって支配された光景が残っている。
武器が鳴り、人の絶叫が草原を埋め尽くした日。
その時彼の隣にいた少女は、大陸最強の魔女だった。






「ニース。傍にいなさい」
魔女の命に少年は頷いた。手綱を強く握り、彼女の隣へと馬を進める。
丘の下に広がるものは人馬の海だ。そしてそれは戦争の先駆けでもある。
若干十二歳の王である彼を支え采配を振るう女は、けれどまもなく始まるであろう戦いを前に、微塵も恐怖を抱いているようには見えなかった。傍に控える将軍に向かって、彼女はいくつか確認と命を下す。
この戦争は、ニース自身の初陣でありながら同時に、国の存亡を賭けた戦いでもある。
緊張を隠せない少年王に、だが魔女はいつも通りの笑顔を見せた。白い指を伸ばし、彼の兜を指で叩く。
「王はそんな顔を見せてはいけない。堂々としていなさい」
「ティナーシャ」
「大丈夫。私が魔法を使わなくたって勝てますよ。こちらが勝てる状況で開戦するよう調整したんですから」
「だけど」
「だけどはなし。―――― それよりも学びなさい」
草の匂いを運ぶ風。魔女は黒い髪をかき上げ、前方を見つめた。草原を埋め尽くす兵の更に先を見つめる。



「学びなさい」と、それは彼女の口癖だった。
ある日突然、彼の前にふらりと現れた魔女。
「青き月」との異名を持つ彼女をニースの下に呼んだのは、彼の後見人でもあった老臣であった。
権力闘争に巻き込まれ、幼くして父を失い玉座を手に入れたニースを、その男は単身ずっと守り支えてきたのだ。
だが老いの為か病の為か、ついにはそれが叶わなくなると知った時、彼は魔女の塔に向かった。
そうして老臣は自分の命と引き換えに彼女を呼び―――― 三年が経った今、国内にはニースの王座を脅かす者はいない。
卓越した手腕を持つ魔女は、それだけの期間で全ての政敵を退けてしまったのだ。
彼女は今、最後の壁となるであろう隣国の軍勢を前に傲然と面を上げている。
「ニース。王は民を守る為に、兵の命を使わざるを得ないんですよ。
 だからせめて無為の戦いは避けなさい。戦うならば学びなさい。王が無駄にしてよいものなど何一つありません」
陽光が斜めに差し込んで、黒髪を照らす。
眩しさに目を細めるニースに向かって、魔女は淋しそうに笑った。



説教くさい女であった。
もっともそれは、彼女が彼の教師として振舞っていたのだから当然であろう。
刺客には剣を、政敵には謀略を以って、彼女は多くの手本をニースに見せていった。
それは想像していた魔女の姿とは違って、地に足のついた普通の人間と変わらぬように思えたのだ。
ニースにとって彼女はかけがえのない教師で、友で、家族であった。
姉ではあったが、女ではなかった。
女になる前に、彼女は消えてしまった。



草原に現れた敵軍は、既に幾許か疲労しているように見えた。
それは、事前にニースが彼女の指示で、進軍路の橋を崩してしまったことと無関係ではないだろう。
簡易の橋をかけやって来たという彼らを、草原に布陣する軍は万全の態勢で迎え撃つ。
ニースは緊張に固くなりながらも兵たちに向かって、攻撃開始の命を宣言した。
いつもの風に鉄の匂いが混ざりこむ。






この二年、ティナーシャが彼の期待を裏切ったことは一度もなかった。
彼女は彼の希望であり、理想であった。
そしてそれは、この戦争においても例外ではなかったのだ。
敗走していく敵軍を前に、ニースは踏み躙られた草原を眺める。
隣を見ると魔女が、茫洋とした目で落ちていく日を見つめていた。
繊細な美貌が赤く染まり、睫毛の下に影が落ちる。
「ティナーシャ」
「何ですか?」
「いや……何でもない」
「しっかりしなさい。軍を集めて帰城しますよ」
魔女は馬首を返すと、夕闇の中遠ざかっていく。

それが彼女の姿を見た最後で、ニースが城に戻った時、魔女の姿は既に何処にもなかった。
彼女が使っていた部屋には私物の一つも残ってはいなかった。
約束の時が来たのだ、と彼は知った。






  「ずっと傍にいてくれるのか?」
  「まさか。貴方が一人前になったら塔に帰りますよ。そういう契約ですから」
  「お前がいなくなったら淋しい」
  彼女の手を握ってそう訴えると、魔女は大人びた微笑を見せて「馬鹿ですね」と笑った。






大人になってからニースはその笑顔を思い出す度、胸の痛くなる感覚を味わう。
それが何と呼ばれる感情であるのか、彼は答を出そうとしなかった。彼女の塔を訪れるようなことも。
ただ美しい丘と草原の風景を思い出す度、その景色の裏に魔女はいつでも佇んでいる。
孤独で優しい塔の魔女。
彼女の微笑は何よりも澄んで、果てしなく美しかった。