もう戻れない書類

mudan tensai genkin desu -yuki

これはまだ、雫が言葉を失っていなかった頃のお話。

ファルサスより攫われるように連れてこられ、キスクにてオルティアの側近をしている女。
彼女は幼く見える外見とは裏腹に案外切れ者であるのだが、それを知る者は城内にはあまりいない。
そしてそのこと以上に―――― 彼女が実は、読み書きを非常に苦手とする人間だと知る者は、ほとんどいなかった。

ファルサスの侵攻を前にして慌しく思惑が錯綜するキスク城内。
その中でもっとも忙しい人間の部類に入るであろうニケと雫の二人は、その日、机の上に多くの書類を広げて今後の対策案を話し合っていた。主君を玉座につけ、内外の敵を退ける為に数々の腹案を出し合って検討する。
それら腹案の多くはまずこの場において却下され、ほんの一握りがオルティアへと進言されるのが常だ。
ニケはいくつかをまとめて一枚の書類に書き留めると、それを雫へ手渡した。
「俺は明日から城を空ける。これをこのまま清書して姫に渡しておけ」
「分かった」
「ああ、あとこっちは文官行きだ」
新しく書かれたメモ。その最後に―――― ニケは雫を一瞥するとある一文を付け加える。
書類を渡された雫は、真面目くさった表情で頷いた。
男はその反応に不安を覚えなくもなかったが、いいことにして一旦会議室を去る。
それら文書の意味を、彼女がまったく理解していなかったと彼が知るのは、三時間後のことだった。


待っても来ない。全然来ない。ものの見事に待ちぼうけである。
城の西から城下へと抜ける門。その手前で雫を待っていたニケは、懐から魔法細工の時計を取り出した。約束の時間から既に三十分以上が過ぎていることを確認し、顔を引き攣らせる。
「何をしてるんだあいつは……!」
明日からはまた城の外へ出てしまう。だからその前に、慰労を兼ねて彼女に食事を奢ってやろうと思っていたのだ。
下心の有無についてはよそに置いておくとして、だがとにかく彼は、その旨の約束を清書させる書類の最後に付け足して彼女に渡した。
別に用事があったり行きたくないのなら、彼女の性格から言ってその場で断っただろう。
けれど何も言ってこないならば、付き合う気があるということに違いない。
―――― と思っていた。ニケだけは。


「お前! 何を考えてる!」
痺れを切らして彼女の私室を訪ねてみると、あろうことか雫はまだそこにいた。外出する気が微塵もないらしい部屋着で本を読んでいる。
「え。何? 何か仕事にミスあった?」
「あの書類はどうした!」
「うん? そのまま清書して提出したよ」
「…………」
非常に嫌な予感がする。
嫌な予感がするのだが、そこまで馬鹿な人間にはさすがに思えないし、そこまで底意地が悪くもないだろう。
ニケは若干蒼ざめながら聞きなおす。
「そのまま、清書したのか?」
「一言一句。全部そのまま。……不味かった?」
不味いどころの話ではない。
あの書類は、本来公的な記録に用いられるものなのだ。
そこに私的な記述を載せられそうなニケは、力の限り不条理を批難する。
「何でそんなことをするんだ!」
「あんたがしろって言ったんじゃん」
「お前は……! 清書してて何も気付かなかったのか! この馬鹿女!」
「何? 何なの? 同僚いびり?」
雫の肩を乱暴に揺さぶっても何が解決するわけでもない。
ニケは色々言いたいことを堪えて文官のもとに転移すると、問題の書類を取り上げた。
担当の文官が、中身を読んでいないはずがないだろうに、黙ってそれを渡してくれたのは、同情心があったからなのかもしれない。
こうして問題の一文は公式文書として残される前に、書いた本人の手によって隠滅されることとなったのだった。
ニケにはちょっと心の傷が出来た。