失われた歌

mudan tensai genkin desu -yuki

歌が聞こえる。
それは夢の中だけに聞こえる幻のようにも思えた。穏やかな眠りと親和する女の声。
聞き慣れたその響きはどこまでも澄んで、打ち寄せる波のようである。
オスカーは息をつく。
その行為は彼の意識を波間に浮上させる役割を果たした。まだ闇が支配する時間、彼はうっすらと目を開ける。
「ティナーシャ?」
まずその名を呼んだのは、彼の隣に眠っているはずの妻の気配が感じられなかったからだ。
オスカーは体を起こすと暗い寝室を見回した。すぐに窓辺に座っている女に気付く。
「夢じゃなかったのか」
「起こしてしまいましたか。すみません」
窓を開け、か細い声で歌っていた女は申し訳なさそうに微苦笑すると硝子戸を閉めた。
彼女は魔法の明かりを手に、羽織っている衣の前をあわせる。

記憶に残る淡い歌。その旋律に、彼は覚えがあった。
まだ二人が人間であった頃、時折彼女が歌っていた子守唄だ。
今はもう亡き国より伝わる歌に、オスカーは彼女の抱く郷愁を思う。
「淋しいのか?」
「いいえ」
「だがもう俺たちだけしかいない」
「貴方がいます」
強い言葉には嘘の一滴も感じられない。彼は苦笑して目を伏せた。
国を離れ、子と別れ、人の世を離れた自分たち。残るものは繋がっていた過去と、切り離された未来だ。
オスカーは前髪に指を差し入れ、無造作にかき上げた。かつてあり、今はもうない歴史を思い出す。
「あのまま」
「はい?」
「あのまま、トゥルダールを救えた時の方がよかったか?」

それはもはや二人にしか思い出せない記憶だ。
一度だけ変えられた歴史。彼女が魔女の名を冠しなかった時の歴史。
それこそが彼女の本当に望んだものではなかったかと問う男に、ティナーシャは少しだけ驚いた顔になる。
オスカーは自身の掌を見つめた。
「望めば叶うかもしれない。俺たちにはあの力が二分されて入っている。過去と、未来と……」
「いいえ」
否定の声は、孤独を噛み締めているようにも聞こえた。
彼が顔を上げると、ティナーシャは淋しそうに微笑む。
「いいんです。もう」
「そうか」
「それに私欲でこの力に手を出せば、飲まれてしまう気がして」
「そうだろうな。忘れてくれ」
卑怯なことを言ってしまったと、オスカーは自分の発言を悔いる。
彼女が自分の感傷の為に過去を改竄することなどないと、分かっていて聞いたのだ。
ただ彼女を慰める為に―――― 慰めたいという思いを示す為に口にした。
彼は度し難さを深い息と共に吐き出すと、妻に向かって手を差し伸べる。
「おいで」
―――― 彼女はこの手を必ず取る。
そうと分かって呼ぶことは、欺瞞なのだろうか。ティナーシャは言われた通り窓辺を離れ、彼の腕の中に収まった。
背を預けてくる女をオスカーはそっと抱き締める。滑らかな黒髪に顔を埋めた。
「歌ってくれ」
過去へと向ける贖罪。変質から振り返る歴史。
彼女は再び子守唄を歌いだした。
月は見えない。空は暗い。
彼らは何処までも二人きりだった。