泣けない少女

mudan tensai genkin desu -yuki

母の手の温かさはよく覚えている。
消せない呪印が刻まれた両掌。だが、彼女にとって母の手とはそういうものであった。
十四人の「災禍の子」らのうち、ただ一人だけ母親に抱かれたことのあるヴェオフォルミネ。
彼女はそして、母の死を記憶している唯一の子供でもあった。





「ヴェオフォルミネ」
頭を撫でる手は優しく、ヴェオフォルミネは母の膝に顔を埋めたままそっと笑んだ。
肩にかけられた毛織物は小さな体を包み込んで、冷え切った部屋の空気から幼子を守る役目を果たしている。
石で出来た塔の部屋。そこに閉じ込められている彼女は、体を一層縮こめて母に寄り添った。
女は我が子の髪をゆっくりと梳いていく。
言葉のないひととき。ヴェオフォルミネは、本当は飛び起きて母に色々な話をしたかった。
だが今はまだ眠っている振りをしなければならない。
彼女が起きていると分かったら、衛兵たちはきっと母をこの部屋から連れて行ってしまうだろう。
許されている母子の時間は、いつもとても短い。
それはヴェオフォルミネが魔法構成を組めない「失敗作」で、母親が突出した魔法士である以上、無理のないことかもしれなかった。
耳の後ろに髪をかけてくれる指。ヴェオフォルミネはくすぐったさに笑い出したい衝動を堪える。
仄かに甘い香りが彼女の幸福感を大きなものとした。
思わず大きく息を吸い込もうとした時、だが無情にも「時間だ」という声が響く。
「ヴェオフォルミネ、ごめんなさい」
「おかあさん」
彼女は咄嗟に顔を上げ、母の目を見た。
二対の蒼い瞳。よく似たそれらは寂寥を湛えてお互いを見つめる。
だが、そうしていられた時間もほんの僅かのことだった。
衛兵は乱暴に母の腕を引いて立たせる。服の裾にすがり付こうとするヴェオフォルミネを、固い爪先が蹴った。
悲鳴を上げて転がる幼児に駆け寄ろうとした女は、四肢の鎖を引かれて呻き声を上げる。
「手を焼かせるな、カサンドラ。娘の命が惜しくないのか」
魔法士への侮蔑を隠しもしない兵士を、女は冷え切った目で見返した。
そこには紛れもない殺意が過ぎり―――― 男はぎょっと身を竦める。
だがカサンドラはすぐに男から視線を外すと、蹲る我が子を振り返った。
「いい子にしていて。また来るから」
「おかあさん」
「また来るから。必ず」
それだけの不確かな約束にヴェオフォルミネは顔を上げ、頷いた。
頷いて―――― だがその約束は、ついに守られることがなかったのである。


母の遺体は血に塗れて横たわっていた。
それはまるで襤褸布のように、城の濠へ捨てられようとしていたのだ。ヴェオフォルミネはその体に縋り付いた。
悲しいとは思わなかった。
ただ胸を焼いたものは激しい憎悪だ。
まだ五歳だった彼女はその場に居合わせた者たち全員を見て、淀みなく言い放った。
―――― 「お前たちは皆、城を焼く劫火の中で悶え死ぬのだ」と。





「君の欠損はそれか」
「サーシュ」
隻眼の少年に手を取られ、ヴェオフォルミネは「今」へと戻ってくる。
感情の薄い蒼の瞳。少女の双眸は空中から、焼け落ちていく城を捉えた。そこにはもはや憎悪もなく、そして悲しみもない。
悲哀は初めから彼女の中には存在しないのだ。
生まれた時につけられた傷。魂の欠損は、ヴェオフォルミネの中から悲しみという感情を奪っていった。
母が死んだ時でさえ呆然とした喪失感しか抱かなかった少女は、滅び始めた国を前に両眼を閉じる。
「何も、感じない」
「そうかもね。僕は楽しい」
「なら、私も楽しいのかも」
「一緒においで」
少年に促され、ヴェオフォルミネはその場から転移して消える。
幾筋も空へと立ち上る黒煙。全てを焼き尽くす劫火は、舐めるようにその舌を城の隅々まで伸ばしつつあった。