叶わない野望

mudan tensai genkin desu -yuki

書類を書く手を止め、執務室の扉をじっと見つめる。
それはここ数日の間、オルティアが無意識のうちに何度もしてしまっている仕草だった。
女王はほんの少し前まで自分の側近だった女を思い出す。
『姫、今よろしいですか?』
彼女はいつもそんなぞんざいな挨拶と共にやって来て、報告や忠言をオルティアに降らせて行ったのだ。
毎日のように聞いていた時にはありがたくもあり煩くもあった彼女の言葉。
だがそれが聞けなくなった今となっては、無性に淋しく思える。オルティアはペンを置くと椅子の背に寄りかかった。

ファルサスとの小競り合いが交渉によって決着してから数日。
城から失われたものは一人の女だ。
浮き立つような異端児で、おかしいものはおかしいと言って憚らなかった彼女。
その彼女がファルサスに戻って以後、キスクの城にはあちこちに空白が生まれたようだった。
女官たちでさえも時折物足りないような顔をしているのは、オルティアの気のせいではないだろう。
背もたれに体を預けぼうっとしていた女王は、執務室の扉を叩く音に気だるく姿勢を戻すと「入れ」と命じる。
入ってきたニケを見て、彼女は溜息をついた。
「何だ、お前か」
「…………申し訳御座いません」
いかに理不尽な言葉であっても、それが主君のものとあっては謝罪するのが臣下の務めだ。
ニケはまず頭を下げると、続いて書類の束を女王に呈し、現状の報告を始めた。
オルティアはいささか気が抜けたようにそれらに相槌を打っていく。
全ての報告が終わると、女王は琥珀色の目を天井へ向けた。
「この城も静かになったな」
「……左様で」
玉座の主が変わり、ファルサスとの調停が終わったばかりの今、宮廷内はむしろざわついている方だ。
にもかかわらずオルティアがそう言うのは、純粋に彼女の周りが静かになったからであろう。
いつも女王の傍について口煩くしていた女がいなくなった。
そのことは二人の間に喪失に似た虚脱を以って圧し掛かっている。
オルティアは机に頬杖をつくと、何の稚気もない目でニケを見上げた。
「お前は雫を連れ戻したいと思うか?」
「いえ」
「そうか。妾もな……」
そこで途切れた言葉に何が続くのか、オルティア自身にもよく分からなかった。
女王は霧散してしまった集中力を引き戻しつつ体を起こす。
彼女は放り出したペンを取ると、はっきりとした声音で言った。
「仕方あるまい。ファルサス国王が死んだら雫を引き取ろう。さっさと死ね、あの男」
「左様で」
死ね死ねという呟きで自身を鼓舞しつつ、女王は仕事を再開した。
ニケは深々と頭を下げ執務室を出て行く。
再びペンの走る音だけが響くようになった部屋。
キスク城は少しだけ静かになり、そして平穏が訪れていた。