消えゆく感情

mudan tensai genkin desu -yuki

その男は、時折彼女の勤める「店」にやって来ていた。
レーネの働く「店」とは、一見普通の古物屋。しかしその実は、盗品を始め表沙汰に出来ないものを高額で捌いている場所でもある。
彼女は上からの命令でそこに勤め、日々淡々と店番を請け負っているのだが、その男はある日ふらっと店の扉を開けて暗い中へと入ってきた。
長身に鍛えられた体つき。それだけでもう剣を佩いていなくとも、戦闘職の人間だと分かる。
眉目秀麗な顔立ちは不思議な気品を湛えており、初めの一瞥からレーネの視線を引き付けてやまなかった。
蒼い双眸が薄暗い店内を見回し、最後に店の奥に座すレーネを捉える。
「ここは」
「はい」
「競りもやっていると聞いた」
「ええ」
競りのことを聞いてくるくらいだ。彼はこの店がどういう店か知っているのだろう。
レーネは慎重に言葉を選びながら、「競り」の日にちを彼に伝えた。
三ヶ月以上先の日付を聞いて男は眉を僅かに寄せたものの、何の文句もなく頷く。
「また来る」とだけ言い残して店を出て行く男の背を、彼女は半ば見惚れるようにして見送った。

彼の名は、結局最後まで聞くことはなかった。
ただそれからも時折店にやって来ては、並ぶ品物を調べているような男に、レーネはいくつかの質問をしてみただけだ。
そうして分かったことは、彼には妻がいるということ。
ただしその妻とは、大分前に死別しているということ。
けれど彼は―――― その妻のことを、今でも変わらぬ愛情で想っていること、などであった。
男は雄弁だったわけでは決してない。
ただそれでも伝わってくる亡妻への想いの強さに、レーネは表情には出さないまでも幾分かの悔しさを味わった。
どれほどの女が彼のような男の心を長く掴んで離さないのか。
考えてみても答など出ない。
ましてや亡妻の記憶を自分が払拭し、彼の隣に立ちたいなどとは、望むことさえ出来なかった。
そのようなことを望む場所ではないのだ。彼との接点である「店」も、レーネの立ち位置も。
だから彼女は何を言うこともなく、競りの日を待った。
その日が彼を見た最後の日となった。

競りの目玉の一つであったのは、さる貴族の屋敷から盗み出された「魔法生物」だった。
非常に珍しい「喋る動物」。 だがそれは、競りの半ばで突如暴れ出し、周囲を破壊し始めた。
突然の事態に人々が逃げ惑う中、ただ一人その生物に立ち向かったのは、レーネがずっと目で追っていた男だ。
彼は武器の持ち込みを禁止されていたはずの倉庫内で、長剣を振るってその生物の攻撃を防いだ。
あまりのことにへたり込んだレーネに、男は振り返って問う。
「大丈夫か?」
「だ、だいじょうぶ」
「すまない」
何故彼が謝るのか、レーネには分からない。
その時には既に、魔法生物は倉庫の中から逃げ出してしまっていたようだった。
男は剣を握りなおすと何もない空中を睨む。―――― 後を追っていくつもりなのだと彼女には分かった。咄嗟に男の左手を掴む。
「待って」
「何だ。離れてろ」
「あなたは」

行かないで、とは言えなかった。
そのような距離は、許されてはいなかった。
レーネは男の蒼い瞳を見つめる。

「負けないで」
口に出せたものは、そんな言葉だ。自分でも何故言ってしまったのか分からぬ言葉。
それを聞いた男は瞬間瞠目し、次に苦笑する。力強い手が彼女を支え立たせた。
「分かった」
短い約束の言葉。
男は床を蹴って空に消える。その後姿をレーネはいつものように見送った。
直後に感じたものは喪失だろうか。胸の奥につかえる棘のような空虚。彼女は皆が逃げ出してしまった倉庫を見回す。

その後のことを彼女は知らない。
競りの損害は幸い大したことはなく、一月後にはいつも通りの日々が戻ってきた。
彼女は再び店番に戻り、薄暗い店の奥に座する。
だがどれ程待とうとも、あの男は二度と店を訪れはしなかった。
レーネはそのことに棘のような胸の痛みを覚える。
「らしくないわよね、まったく……」
少女のような恋をしてしまったのは何年ぶりのことなのか。
彼女は自嘲と共にその感情を自ら風化させようとする。
あの男がその後勝てたか否かは、考えるまでもない。
おそらく彼は、誰にも、どんなものにも負けることはないのだ。そのことをレーネは確信している。
暗い店内によく映えていた蒼い瞳。
それはまるで無限に広がる空のように悠然として、何ものにも屈せぬ力を持っていた。