焼き付けた足跡

mudan tensai genkin desu -yuki

夜の城はあまねく静寂が支配し、魔法の灯りでは拭いきれない暗がりが、彼のいる部屋の隅にも佇んでいた。
ペンの走る音だけが響く室内。一人残って仕事をしていた男はふと顔を上げる。
廊下を近づいてくる足音。見回りの衛兵のものだと思っていたそれが、部屋の扉の前で止まったのだ。
こんな夜更けに誰がどのような用事を持って訪ねてくるのか、彼は自分の執務室の扉を見やった。
数秒後、一回だけ扉が軽く叩かれ、返事を待つ前にゆっくりと開き出す。
そこに立っていたのは、彼のよく知る女だった。
「ティナさん」
「こんな時間まで仕事ですか? 体を壊さないようになさい」
叱るような声音で窘められ、モーラウは含み笑いをする。
つい半年前までは毎日のように彼女から罵られる日常を送っていたものだが、彼女が結婚して城を去ってからはその声を聞くことも稀になっていた。懐かしい響きについ笑みが零れる。
モーラウはペンを置くと立ち上がった。
「それで、何の御用ですか」
彼女が用事もなしに自分のところへ来ることはない。
ましてやこんな時間となれば、緊急の用事の可能性が高いだろう。
頭の中で進行中の懸案を思い浮かべる男を前に、だがティナーシャは苦笑する。
「時が来たので、私たちはこの国を去ります。今までありがとうございました」
「ああ……」
あっさりとした別れの言葉。
そんな日がいつか来るだろうとは思っていた。
だが実際直面してみると、あまりにも急なことで何の感慨も抱けず言葉も出ない。
現実味のない終わりに、彼はただ困ったような微笑を浮かべただけだった。
「ティナさんがいなくなると淋しいですね」
「そうですか」
「いざという時、誰に仕事と責任を押し付ければいいのか分からなくなります」
「自分でやれ、変態」
「そんな殺生な!」
いつも通りの悲鳴を上げる男に、ティナーシャは肩を竦めてその場を退く。
暗い廊下から一人の少年が現れ、彼女の隣に立った。
よく知っているはずの人間。だが外見こそ同じものの、そこに雰囲気の明らかな差異を感じ取ってモーラウは瞠目する。
ラジュと呼ばれていた少年は、数枚の書類をモーラウに手渡した。
「これで俺が将軍位を退くにあたって必要な手続き書類は揃っていると思う。急なことで悪いがよろしく頼む」
「かしこまりました」
「色々と世話になった。ありがとう」
少年の物腰には、抑えられてはいたものの外見年齢とは乖離した威厳が感じ取れる。
その威に息を飲んだモーラウは、彼が先に廊下へと出て行くと、残ったティナーシャに向かって小さく声をかけた。
「あなたの王は彼だったんですね」
彼女は言葉では何も言わなかった。
ただ問いかけに応えた女の、嬉しそうな誇らしげな表情を、モーラウが忘れることは一生ないであろう。
黒々とした睫毛を瞬かせてティナーシャは微笑する。
それは彼が見た彼女の中で最も美しい、透き通るような幸福の貌だった。

そうして歴史の表から消え去った二人のことを、彼はいつまでも記憶し続けている。
誰に語ることもない断片。
それらはあらゆる時代、あらゆる場所に点在して、人外の足跡を密やかに示し続けるのだ。