愛すべき王女

mudan tensai genkin desu -yuki

それは、ずっと昔幼馴染の少年から聞いた話だった。
大人の目には見えず、誰からも話しかけられない男の話。
黒い服を着た彼はいつの間にか現れて町や村を徘徊し、やがてある子供にあたりをつける。
そうしてその子供の部屋の前に五つの石を置き……彼はその石を毎晩一つずつ持ち去っていくのだ。
大陸西部に伝わる古い御伽噺。
―――― 石が全て持ち去られた時、彼は子供もまた連れ去ってしまうという。



肩に触れてきた男の手は、その重みをほとんど感じさせなかった。
まるで散ってきた花弁のように軽く添えられただけである。
だからこそ彼女はその仕草に怒りを覚えなかったのかもしれない。普段であれば、このように自分に触れてくる男を、彼女は「厚かましい」と嫌がって憚らないのだから。
「姫、何処をご覧になっているのですか」
「何処も? 強いて言えばあなたかしら」
「それは光栄です」
「単にあなたが私の目の前に立っているからよ」
つんとした口調で彼女が返すと、男は照れくさそうに笑う。その微笑に彼女は指の先ほどの好感を持った。
貴族ではない豪商の息子だという彼だが、品のなさは少しも感じない。
むしろ温かみのある態度や、それを押し付けようとはしない慎ましさは、彼女に新鮮味を感じさせた。
黒服の青年は肩に置いた手を少しだけ上げる。彼女の栗色の髪を一房、その指に絡めた。
「エウドラ姫」
「なぁに?」
真摯な光を宿して自分を見つめてくる男を、エウドラはじっと見返す。
よく知りもしない相手との一時。だがそれは不思議と、不快ではなかった。



「でね! 彼は私の瞳が綺麗って誉めてくれたのよ!」
「そうですか。よかったですね」
お茶を淹れるシスイはいつもと変わらぬ笑顔でエウドラに相槌を打つ。
だがその変わらなさを不敬の表れと、十六歳の王女は取ったらしい。エウドラは眉を上げて幼馴染の青年をねめつけた。
「何、その返事。感動が足らないわ」
「失礼しました。言い直します。―――― 姫! おめでとうございます!!」
「……馬鹿にしてるの?」
「いえ、とんでもございません」
打って変わってしらっとした返事は、いつもの彼のものである。
滅多に真意どころか感情が揺れているところも見せないシスイに、エウドラは批難の視線を送った。
「とにかく、なかなかに悪くない男だったのよ」
「そうですか。よかったですね」
「どうでもいいと思ってない?」
「いえいえ」
隙のない笑顔を浮かべるシスイは、これ以上どうつついてもエウドラが望む返答を出しそうにない。
王女は諦めてケーキを食べることに意識を戻すと、再び中庭で出会った青年についてぼんやりと思いを馳せた。
そこにシスイがお茶のお代わりを差し出す。
「でも姫、おかしな話ですね」
「何が?」
「いえ、そのような男が来城したという記録は何処にも残っておりませんので」
「―――― え?」
「姫、本当にそんな人間が……いたんですか?」
笑うことをやめたシスイの顔は見たこともない真剣なもので、エウドラはぞっと戦慄した。
そして拭えぬ悪寒を片隅に夜を迎えた王女は、翌朝、あろうことか部屋の前に五つの石が置かれていることに気付いたのである。



おかしな石に、ずっと昔に聞いた怪談のことを思い出したのは、昼過ぎになってからのことだ。
エウドラは血相を変えてシスイを呼び出したが、この日に限って彼は捕まらない。
王女は自分を攫うかもしれない黒い服の男が誰かと考えて―――― ふと中庭で出会った青年のことを思い出した。シスイが彼の記録などなかったと言っていたことが甦る。
「う、うそっ、まさか……。私もう十六なのよ……」
その日部屋に閉じこもってぶるぶる震えていたエウドラは、兄の誰かに相談しようかと本気で悩んだ。
だがどの兄に相談してもまず、そのような不審な男と話していたことを咎められることは明らかである。
そうなったらよくて何時間ものお説教。悪くて一ヶ月の外出禁止だ。
悩んだエウドラは結局その日、部屋を出ぬまま一日を終えた。

翌朝、部屋の外の石は全て捨てさせたにもかかわらず、何故か四個になっていた。



「もういやあああああああああああああ!」
エウドラが叫び声を上げたのは、捨てても捨てても戻ってくる石が残り一つになった日の晩のことである。
彼女はようやく捕まえたシスイの襟首を掴むと、涙目で懇願した。
「だから、あなたは今晩ここにいなさい! いいわね!」
「未婚の王女の部屋に僕が見張りでお邪魔するというのは問題があると思いますよ。廊下におりますから」
「やだ! 絶対やだ! 部屋の中にいなさい!」
「姫……」
しがみついて半泣きのエウドラにシスイは天井を仰いだものの、再三再四請われてしぶしぶ頷いた。
寝室にいなさいという命令はさすがに断って、彼は廊下に繋がる扉のすぐ内側に座する。
「じゃ、安心しておやすみください、姫」
「眠れないわよ!」
「薬でもお持ちしましょうか?」
エウドラはぶるぶるとかぶりを振って、寝室で掛布にくるまった。
音のない深夜。普段はあっという間に過ぎる時間が、やけに遅く感じる。
シスイのところに言って話でもしようかと彼女は考えたが、夜中に話をねだれば怪談を話されることは確実だ。
彼女は結局涙目で一睡も出来ぬまま夜を明かし―――― そして翌朝を無事に迎えたのだった。



残った最後の石は、シスイが中庭に捨てた。
彼は安堵したエウドラが眠りこんでしまったのを確認すると、王太子の執務室へと向かう。
そこで待っていたイルジェは首尾を報告されると、真面目くさった顔で頷いた。
「また薬が効きすぎたか? しかしエウドラも少しは懲りただろう」
「件の男は父親と共に既に追放済みです」
「手間をかけたな。どんな様子だった?」
「大したことはありませんでした。王女の寵を得られれば脱税の罪が免れられると期待するくらいですから。
 自力では何も出来ぬ人間なのでしょう」
「やれやれ。馬鹿な奴らだ」
王太子が署名した書類の束をシスイは受け取る。
そうして一礼して立ち去ろうとした側近に、イルジェはさした興味もないように、だがあえて声をかけた。
「どうしてエウドラに本当のことを言わなかった? その方が手間がなかっただろうに」
主君の問いにシスイは振り返る。
普段と同じ、真意の見えない笑みが青年の顔に浮かんだ。
「それをしては姫の誇りに障るでしょうから。
 ―――― あの方は打算を抜きにしても魅力的です。それを自覚して頂いた方がよろしいでしょう」

そのまま平然と退出していった側近に、イルジェは苦笑を浮かべる。
キスクは今日も代わり映えなく平穏で、何一つ憂いは残っていなかった。