緑の森

mudan tensai genkin desu -yuki

広がる木々は見渡す限り鮮やかな緑。
そして彼を覗き込んできた女の瞳もまた、懐かしいほど深い緑の色だった。



息が切れて死にそうになる、という状態はいつ経験しても嫌なものだ。
デトスはもつれた足を止め、草の上に座り込んだ。それだけではなく仰向けに倒れこんでしまう。
広がる視界に空は見えない。ただ頭上には森の葉々が一面生い茂っており、それらは日の光を受けて宝石のように輝いて見えた。
文句なしに見惚れてしまう光景。デトスは途切れ途切れの息を吐き出す。
人の住む村からそう遠い森ではないとは言え、道のない奥深くにまで迷い込んでしまったのは、途中で野犬に追われたからだ。
数ヶ月前にはあんな犬はいなかった。たったそれだけの間に、この辺りも物騒になってしまったのだろう。
「参った……」
デトスは森より山一つ越えた場所にある村から、行商をして近隣を巡っている若者なのだが、最近平穏だったこの辺りにも徐々に翳が差し始めている。
税の値上げや領主が武器を買い集めていること、隣国の情勢の悪化など悪い話が徐々に人の口に上り始めているのだ。
そのせいか今回は売り上げも伸びず、彼はせめて早く村に帰ろうと森の近道を通り―――― 野犬に追われた。
もう散々と言っていい状況である。このまま元の道に戻れなかったらどうすればいいのか。
考えてもそれは、明るい答には繋がらない。
彼は疲労感に満ちた体を投げ出し、瞳を閉じる。
むせ返るような青草の匂い。頬をくすぐるそよ風が心地よい。
まるで子供の頃、野原で昼寝をしていた時のようだ。
気が晴れるまでこのままここで休んでいてもいい。デトスはそんなことさえ思った。
だが彼は、そこで思いもよらぬ出会いを得たのだ。

「具合が悪いのか?」
唐突な声が眠っていた彼を揺り起こす。
目を開くと、真上から一人の女がデトスの顔を覗きこんでいた。
深緑の双眸が、まるで森を閉じ込めた水晶のように見える。
美しくはあるが愛嬌も甘さもない容姿は、何処か教師を連想させた。
デトスは寝ぼけた眼で女を見やる。
「あれ?」
「具合が悪いのかと聞いている」
「いや、悪くない」
「ならば立て」
命令口調を受け、デトスは慌てて体を起こす。
やたらえらそうな女は、彼よりも少し年下に見えた。硬質な雰囲気を持つ彼女を、男はまじまじと見つめる。
「あなたも迷子ですか」
つい丁寧な言葉遣いになってしまったのは、行商人としての性と、単純に彼女が固い人間に思えたからだ。
女は真面目くさった顔で首を横に振る。
「いや、この森に住んでいる。今は買い物帰りだ」
「この森に? 野犬がいたでしょうに」
「野犬?」
二人はそれぞれが怪訝そうなにお互い顔を見合わせた。
ややあって女は眉を寄せ頷くと、デトスに手を差し伸べる。
「分かった。それは私が何とかしよう。お前は森の外へ帰るがいい」
場の変化は唐突であった。
女がそう言ったと同時に空間に歪みが生まれ、デトスはその中へと放りこまれる。
あまりのことに目をきつく閉じた彼が気づいた時、そこは既に森の外の街道であった。
普段行き来に使っている道を、彼は唖然として見回す。
「なんなんだ?」
その答は考えても得られない。
ただ、謎の女が彼を助けてくれたのだということだけは確かだった。彼は遠くに見える森の影を振り返る。





頭上に広がる緑は、一月前と同じ鮮やかなものだった。
道なき森の奥深く、どちらに行けばいいのか分からないデトスは、さすがに蒼ざめて周囲を窺う。
先日助けてもらった礼に、今度近くを通る時は彼女に商品の一つでも渡そうと思っていた。
―――― のはよかったのだが、前回会った場所は野犬に追われて闇雲に立ち入った森の中である。
野犬のいない今回は何処に行けば彼女の家の近くに出られるのか、まったく分からない。
結果デトスは道を外れて木々の間を適当に歩き回り、今現在迷子になっていた。
これで彼女に会えなかったらどうやって帰ればいいのか。
さすがに不味いと思い始めた頃、けれど硬質の声が背後から響く。
「今度は何に追われた? 対処しよう」
呆れるわけでも迷惑がるわけでもない、淡々とした声。
それは、強いて言うならば本当に彼を心配するものだった。
デトスは焦って振り返り、一瞬だけ、彼女の緑の瞳に見入る。
「野犬は」
「排除した」
「今日はお礼を申し上げたくてきました」
売り物を詰めていた皮袋の中から、デトスは一握りの包みを取り出す。
この地域で好んで飲まれる薬草茶。その葉を受け取った女は目を丸くすると「律儀なことだ」と苦笑した。

森の中に一人棲む女。
彼女が何であるのかデトスが知るのは、もっとずっと先のことだ。
だが、それを知っても彼は彼女の前から去っていこうとしなかった。
ただごく普通の好意を彼女に持ち、夫婦となって共に暮らす―――― そんな幸福な二十数年間を、彼らは後に送ることになったのである。