真っ白な庭

mudan tensai genkin desu -yuki

その庭は、一面白い花々で埋め尽くされていた。
香りのない大輪の白い花。無彩色にも見える月下の光景を男は窓から見下ろす。
同じ花びら。同じ形。それらは皆、人の意思によって作られたものだ。
彼は冷えた体に上着を羽織ると、窓を開けようと手を伸ばした。だがその手に、背後からそっと女の手が添えられる。
「駄目ですよ」
「ティナーシャ」
そこに立っていた女は、白い躰の上に紗織りの薄衣を纏っていた。
絹のような黒髪と闇色の瞳。
滑らかな肌の透ける様は後宮の女にも似た妖艶を連想させるが、彼女自身の表情に甘さはなく、むしろ冷徹な月を思わせた。
彼にとって行きずりの相手である女は、男の手を窓から離させると皮肉げに笑む。
「外気はよくないと言いませんでしたか? 開けないでください」
「おかしな場所だな」
「そういうものですから」
先ほどまで彼の腕の中にいた女は、そっけなく言い捨てると窓辺から離れた。
優美な後姿を男の黒い左目が追う。

部屋の中は、何の温度も感じられなかった。
白いテーブルと椅子、そして寝台があるだけで、後は布を被せられた鏡が部屋の隅に追いやられているだけである。
商売宿ではなく、人の住む部屋でもない不可思議な空間。
彼は痛む眼窩を押さえて染み一つない椅子に腰を下ろした。女の姿を探すと、彼女は膝を抱えて寝台に座っている。
闇そのもののような双眸。
それらがまるで刺すように自分を見つめているのに気付いて、男は薄ら寒さを感じた。彼は平静を装って立ち上がる。
「俺はそろそろ帰る」
これ以上ここに居ては、よくない気がした。
だが女は何も答えない。まるで人形のように彼女は微動だにしなかった。
男はもう一度部屋の中を見回す。
それは出て行く為のドアを探す仕草で、だが部屋の中には、何処にもそれらしきものが見当たらなかった。
あまりのことに愕然として彼は立ち尽くす。
「何だ、ここは」
「どうかしましたか」
「俺は、どうやってここに……」
今までの記憶がない。
それは彼に、床の抜けるような恐怖をもたらした。
思わず一つだけの窓を見やる。そんな男に、黒髪の女は喉を鳴らして笑った。
「さあ。どうやって来たのでしょうね」
「お前は―――― 」
知らないはずの女だ。
ただついさっき出会っただけの女。
だが今何故か、その時のことがまったく思い出せない。咄嗟に押さえた手の下で、黒い瞳が慄いて揺れる。

何かがおかしい。
いやそれは、全てであろう。
彼は自分の名さえも分からぬ事実に辿りつくと、呆然としてただ一人生きている女を見やった。
彼女はゆっくりと立ち上がる。
「どうしました?」
笑いながら一歩一歩近づいてくる女。
その存在は、いまや彼にとって恐怖そのものだった。
鏡で己の顔を見たい―――― 窓から外へ逃げ出したい。
そんな相反する衝動に駆られて男は駆け出す。しかしその手を、背後から女が掴んだ。
「もう、お遊びは終わりです」
細い腕。
だが、その手を振りほどくことは出来ない。
女の白い指が彼の顔に伸びる。
何をされるか悟って、男は恐怖に喘いだ。
「や、めろ」
美しい貌。
彼女はこの上なく優しく、そして残酷に微笑んだ。小さな紅い唇が囁く。
「返しなさい」

そして彼は、青い右目を抉られた。





力の核たる眼球を失った体は、一瞬だけ本来の姿に戻って消えた。
ティナーシャは、絶望の表情で消滅した己の残滓を、冷ややかな目で見下ろす。
それらは全て香りのしない白い花弁として床の上に散らばっており、彼女が指を弾くと部屋の床に溶け入った。
残された青い瞳を大切に手の中に包み込んだ彼女は、意識を集中すると「世界」を作り変える。
窓の外に広がっていた無彩色の庭。
その只中で待っていた愛しい男の前に立つと、ティナーシャは瞳を差し出した。
「お返しします」
「面倒をかけたな」
「いえ。ただもうこんなことはしないでくださいね。貴方の大事な目なんですから」
詰るような口振りの女に口付けて、オスカーは受け取った右目を空の眼窩へと戻した。
視力の半分を意味する核。それが戻されたことにより、周囲の花々にも色が滲み始める。
「お前があんまり淋しそうに泣いているから。これをやれば泣き止むかと思った」
「あんなものは『私』に収まりきらなかった只の欠片です。甘やかさなくてもいいんですよ」
自嘲ぎみの女は、御しきれずに彼の慈悲を請うた己の破片を恥じているようだった。
青白い花々が咲き誇る庭。
片翼をいまや自身の片隅に棲まわせる男は、その頭を抱き寄せて撫でる。
「どんな欠片だろうと大切で仕方ない。だが次は気をつけよう」
「切り捨てて下さい。貴方を損なう私なんて、不要のものです」
ティナーシャはかぶりを振って言い捨てると、男の背に両手を回す。
精神と魔法によって作られた世界。
だが自分を抱く腕にまぎれもなく本当の温かさを感じて、彼女は目を閉じた。