灰色の取引

mudan tensai genkin desu -yuki

彼がふらりと何処かへ出て行ってしまうことは別段珍しいことではない。
唐突な外出は最近こそ少なくはなったものの、決して無にはならない彼の習慣だった。
しかし、彼の一挙一動が気になって仕方ない時期もあったオーレリアは、二十歳になった今、その気紛れに対し煩く言うことをやめていた。
己の感情の赴くまま窮屈な檻に恋人を閉じ込めようとすれば、彼はこの世界自体に息苦しさを感じてしまうだろう。
彼の性質の多くは変えられぬ本質であるのだから、他人の迷惑にならぬ範囲で自由にさせた方がいいと、オーレリアは思うようになったのだ。

その日も朝から姿を消していたトラヴィスは、しかし彼女が朝食を食べ終わった頃屋敷に戻ってきた。
いつもより大分早い帰宅。けれど彼の姿を見てオーレリアは唖然としてしまう。
トラヴィスは居間に入ってくるなり、抱き上げていた女の体を長椅子に放り出したのだ。
その女はオーレリアもよく知っている人間だった。彼女は思わず椅子を倒して立ち上がる。
「ちょっ……と、トラヴィス! 一体何したのよ!」
「何って何も。拾ってきただけだ」
「攫って来たの間違いでしょう! 返してきなさい!」
長椅子に放り出された女は意識がないようである。
オーレリアは一瞬彼女が死んでいるのではないかと恐怖したが、その心配はないようだった。
僅かに上下する胸を見て安堵する彼女に、トラヴィスは何の興味もないように返す。
「今返してきたら、そいつ死ぬぞ」
「…………え?」
オーレリアは目を見開いて意識のない女に視線を戻す。
ファルサス歴代の王妃の中でも最も美しいと言われる女。
青き月の魔女、ティナーシャの蒼白な顔色を見て―――― オーレリアは「嘘でしょ」と呟いた。

内腑が瘴気によって腐り落ちてしまった魔女は、体内の時間をトラヴィスが留めていることで、何とか一命を取り留めているらしい。
本当ならばすぐ死んでもおかしくない容態だと聞いて、オーレリアはすっかり顔色をなくしてしまった。慌てて用意した客室にティナーシャを移すと、彼女は恋人の男に問う。
「そ、それ、ファルサス国王には申し上げてきたの?」
「何で俺が? こいつはこいつで城をもう出てきたみたいだからな。適当に拾ってきただけだ」
「じゃあやっぱり攫ってきたのと変わらないんじゃない!」
「うるせーな。放っておけば死んでた奴だ。死んだ人間をどうこうしようと俺の勝手だろ」
「勝手じゃないわよ……」
かなり不味い状況だ、ということは分かるのだが、こういった急場においても噛みあわない常識に、オーレリアは激しく頭を抱えたくなった。
ともかくまずはティナーシャの夫に連絡するのが先決だ―――― そう思って踵を返したところ、トラヴィスの腕が彼女の腰を絡め取る。
魔族の王は難なく細い女の体を引き寄せると、その耳に囁いた。
「何処行く気だ」
「決まってるでしょ。ファルサスに連絡するのよ」
「それをしたら俺はこいつを治さねーぞ」
たちの悪いいつもの嫌がらせと、切り捨てられないだけの意味をその発言は帯びていた。
オーレリアは目を丸くして恋人を見上げる。
「治せるの?」
「俺ならな。他の人間には無理だ」
「なら治して」
迷うまでもない願い。
子供の頃のように率直にそれを口にするオーレリアに、トラヴィスは皮肉げに笑った。
男の黒い眼が陰惨な鋭さを帯びて、背後を振り返る。
「ってわけだ。こいつを治せるのは俺だけ。で、俺がそれをしてやるには条件がある。
 ―――― お前らはそれを飲む気があるのかよ?」
伏しているティナーシャの他に誰もいないはずの背後。だが空間にかけられた声に応えて、「彼ら」はそれぞれ現出した。
トゥルダールに伝わる十二の精霊。ティナーシャを主人とする上位魔族たちは、ある者は緊張の、ある者は苛立ちの表情でトラヴィスを見やる。
最後にティナーシャの枕元に転移してきた魔女が、赤い唇を歪めて笑った。
「その条件とやらを言ってみなさいよ」
「守る気があるのか?」
「それでこの子が助かるならね。……ああ、もし治せなかったら、あんたを八つ裂きにしてやるから」
異様な空気と力が立ち込める室内に、オーレリアは気圧される。
だが彼女はそこで怯んでしまうことなくトラヴィスの袖を引くと、もう一度「お願い、治して」と懇願した。


こうしてファルサスから姿を消した王妃は、魔族の王の手によって治療を施されることとなった。
だが体を大きく作り直されたティナーシャは、トラヴィスの予想通り、ここ数十年分の記憶を喪失することとなる。
しかしそれでも、生きている限り拾えない可能性はないだろう。オーレリアはその一片に賭けて、ティナーシャと暮らし始めることにした。
捻れた思惑の輪が何処で解けてどういう結末を迎えたか。その行方は、ファルサスとガンドナ、両国の記録に記されている。