黒い沼

mudan tensai genkin desu -yuki

大国ファルサスを治める若き王オスカーは、魔女を娶った王であり、また名君の一人として後世にその名が残っている。
彼の業績は細かいものを挙げれば数知れず。だが「魔女の時代」を終わらせた王と言えば、誰もが頷き得るだろう。
―――― もっとも彼個人の性格は非常に無謀、無鉄砲で、城を出ての冒険を好んでいたと知る者は少ない。

「陛下、帰りましょうよ……」
「何言ってるんだ、ラザル。折角ティナーシャの目を逃れてきたというのに」
馬を下りたオスカーは、後に続く幼馴染に呆れた目を向ける。ラザルはがっくりと項垂れ、自身も馬を下りた。
王太子時代には幼馴染だけを連れあちこちの遺跡を踏破していたオスカーは、しかし守護者であり妻である魔女と出会ってからというもの、その無謀を窘められることしきりである。口で注意されるだけならまだましな方で、見咎められた結果、魔法で拘束されることも決して少なくない。
そんな中、珍しく彼女が自分の塔へと帰っている隙に、王の執務室にはおかしな事件の報告が飛び込んできたのだ。
好機を見逃さず城を出たオスカーは、側近のラザル、魔法士のカーヴと共についに城都南西の小さな村へと辿りついた、ところである。―――― ラザルの切れ目ない苦言を背中に浴びながら。
問題の沼の前に立った王は、黒い泥に爪先を入れてみる。
「血吸い虫が出るって話なんだな?」
「そのようです……赤子くらいの大きさで、重傷者や行方不明者も出ているようです」
「沼を干上がらせてみれば一発なんだが、ティナーシャには内緒だからな」
目の前に広がる沼は、池といった方がいいような大きさだった。
周囲は草に覆われており、鬱蒼とした雰囲気を醸し出している。
嘆願書では夜になるとここから赤子大の蛭が這い出て、近くの村を襲うらしい。
村ではなく直接沼を訪れた王は、アカーシアを抜くと無造作に沼の中へと踏み入った。それを慌ててラザルが留める。
「へ、陛下、お待ちを!」
「平気だ。ちょっと様子を見るだけ」
「蛭が来たらどうなさるんですか!」
「ああ」
王は頷くとおもむろに左手を沼の中へ差し入れた。
そうして次に彼の手が引き上げられた時―――― そこには赤子大のぶよぶよした蛭が、直接鷲づかみにされていたのである。
ラザルは悲鳴を上げた。

「これか」
微塵の動揺もなく手に蛭を掴んだ王は、それを高々と上げてみた。目も足もない生物。後ろでカーヴがいそいそと硝子瓶を開ける。
「陛下、頂いてもよろしいですか」
「ああ」
巨大な瓶を携える魔法士と、その中にぎゅうぎゅうと蛭を詰める主君。
常識が覆りそうな光景にラザルはよろめいた。
オスカーは蛭を瓶に詰めてしまうと、更に沼の中へと歩き始める。
「結構浅そうだぞ」
「お戻りください!」
「腰の高さを越えたら戻ってみる」
それは「当分戻る気がない」と同義である。ラザルは半泣きになって王の後を追った。
ずぶずぶとめり込む足下。靴の隙間から入り込んで来る泥が不快感をもたらす。
何かが擦り寄ってくるような気配を感じ、彼は悲鳴を挙げて飛び上がった。その間にもオスカーはどんどん先へと進んでいく。
次々沼の中から蛭を掴み上げては背後に放り投げる彼は、この状況が楽しくて仕方ないようだった。
悲鳴を上げて避けるラザルとは別に、カーヴは嬉々としてそれらを袋詰めしていく。
「陛下! ティナーシャ様がお知りになったら……」
「ばれなきゃいいだろ」
「私が申し上げますよ! いい加減お戻りください!」
痛切な悲鳴にオスカーはようやく振り返る。
彼が何か言おうと口を開きかけた時、だが沼には不意に影が差した。ラザルの顔が引き攣って凍りつく。
「陛下……」
背後に感じる気配。オスカーは剣を握り直した。後ろにいるであろう「何か」に対し意識を集中する。
影の大きさからいって、大人の身の丈三人分はあるのだろう「何か」。それは、一瞬の後、彼の背へと飛びかかってきた。オスカーは振り返りながら剣を薙ぐ。

だがアカーシアの切っ先は、何に触れることもなく空を切った。
視界を埋め尽くす黒い肉片。
破裂したらしいそれらを目の当たりにした王は、途端苦い顔になる。
数秒遅れて予想通り―――― 鈴を振るような女の声が頭上から降り注いだ。
「何をしているんです? オスカー」
「ティナーシャ……」
夫の剣に先んじて、蛭の母体を破裂させた王妃は、空中でにっこり微笑んだ。
その微笑が災厄と同義にしか思えない男たちは、それぞれの表情でティナーシャを見上げる。
この一件の責任者たる王は、内心の頭痛を堪えて頷いた。
「よし。俺が悪かった」
「悪いですよ! すぐ城を抜け出して……自分が何者か自覚はないんですか!」
「たまには気晴らししたい」
「沼に浸かって蛭に食われかけることの何処が気晴らしなのか、言ってみなさい!」
長くなりそうな説教に、ラザルは深い溜息を吐き出す。
この後この沼は完膚なきまでに干上がり、村人たちは大いに安堵したのだった。