優しい午後

mudan tensai genkin desu -yuki

料理の腕は申し分ない。食後のお茶が飲みたいと思った時には出てくる。
出すぎたことはしない。だが、必要なことは言う前に為される。
何の文句もつけようもない良妻―――― そのこと自体が、ニケにとっては居心地悪いものだった。
もっともそんな贅沢な不満は、誰にも言うことが出来なかったのであるが。

普段多忙を極める彼は、城都に屋敷があるものの、そこでくつろぐということはほとんどない。
大抵夜遅く帰ってきて朝早く出て行く。
その生活はひょんなことから彼が年若い妻を娶った後も変わりがなかった。
夫としては家庭放棄の所業。だがそれも結婚した経緯が経緯であるからして、むしろこちらの方が問題ないくらいだろう。
―――― そう思っていたニケもけれど、毎朝きちんと彼を見送り、深夜は帰宅するまで待っているマーリアに、若干の罪悪感を積もらせていたのではあるが。
夫婦となってから一月ちょっと。
久しぶりにやってきた丸一日の休日に、ニケが珍しく出かけないで家にいるのはそういった罪悪感の為せるわざだろう。
彼は居間に自身の拠点を置くと、持ち帰った書類を広げ始める。
マーリアはそんな夫にお茶を出し、しばらくはあちこち家事をして回っているようだった。
勿論、家のことに関して人を雇う余裕は充分にあるのだが、彼女は自分の出来ることは自分でやるということが好きらしい。
甲斐甲斐しく働く姿は、あまり王家に連なる女のようには見えなかった。
ちょうどニケがお茶を飲み終わった頃にやって来て、新しいお茶を淹れて行く彼女を、彼は苦い顔で呼び止める。
「マーリア」
「はい」
「家のことはいい。少しは自分のことをしろ」
「自分のこと……ですか?」
「ああ」
好きで家事をしているらしき彼女に、こういうことを言うのは困らせるだけなのかもしれない―――― ニケは、瞬間困惑顔になった妻を見て気付いたが、マーリアはすぐににっこりと微笑んだ。
「では、お言葉に甘えさせて頂きます」
そう言って一旦自分の部屋に戻り、帰ってきた彼女は、小さな籠を携えている。
マーリアは中から白い糸玉を取り出すと、レースを編み始めた。
白い指が丁寧に美しい模様を作り出していく様をニケは何とはなしに見やる。

午後の日差しが窓から入り込み、居間を柔らかく照らし出している。
書類を読む夫と趣味に興じる妻。安寧という形容がよく似合う光景は、けれどニケに言葉に出来ぬ落ち着かなさをもたらした。
マーリアに何か不満があるというわけではない。
ただこういった人並みの幸福から外れた人生を歩んできた彼は、それがまるで座り心地がよすぎて分不相応な椅子であるかのように思えて仕方がないのだ。
ニケは目を通していた書類を小脇に抱えると立ち上がる。自分を見上げてくる妻に、彼は抑揚のない声音で言った。
「少し出てくる」
「はい」
どちらへ、などと聞くことを彼女はしない。
そういう煩わしさをニケが嫌っていることを察しているのだろう。ただマーリアは彼の部屋から外出用の上着を取ってくると、笑顔でニケを見送った。
その笑顔に彼はまた一つ罪悪感を覚え―――― 解放感と同時に、決まりの悪さを抱く。

もしこんなところを城の子供たちに知られたなら「不器用」とか「損な性分」とか散々に言われるに違いない。
だがそう言われても三十数年もの間、彼はこういう生き方をしてきたのだ。
それを今更変えることは難しい。
ニケは賑やかな城都の通りを一人散策しながら物思いに耽る。
ただそれでも、彼女が彼を選び、ぎこちない生活に手を尽くしてくれていることは確かで、それは不快ではない温かさに満ちていて――――



一時間程で帰ってきた夫を、マーリアは変わらぬ笑顔で出迎えた。
彼の上着を受け取ろうと手を伸ばし―――― だが代わりに花束を渡されて彼女は目を丸くする。
「あの、これ……」
「好きに飾っておけばいい」
鮮やかな赤い薔薇。その花弁は、彼女がレースで編んでいたものと同じものだ。
驚きから覚めたマーリアはほんの少女のように破顔すると、花束を抱き締めて「ありがとうございます」と囁いた。
その幸福そうな笑顔を見て、家庭というものに逃げ腰な夫は、幾許かの安堵を抱いたのである。