吹き抜ける風

mudan tensai genkin desu -yuki

朝起きた時、窓の外には薄曇りの空が見えていた。
待ちに待った日。だがそれが、雨の降り出しそうな天気となってしまったことに彼女は落胆する。
けれど、そうしている時間さえも惜しいことを思い出すと、少女は慌てて寝台から飛び降りた。
寝具を整え服を着替え、顔を洗いに部屋を出る。
「リオ、おはよう」
「おはよう!」
既に厨房に立っていた養父が振り返って笑いかける。
パンの焼ける匂い。食欲を誘うスープの香。
それは当たり前の幸福で、けれど特別な一日の始まりだった。

覚えている限りリオにとってもっとも古い記憶は、路地裏で寒さに凍えていた時のものである。
あの時彼女は帰ってこない親を探し小さな家を出て、あちこちを彷徨っていた。
子供の足でそう遠くにまでいけるはずもないのだから、実際は家からさして離れていない場所だったのだろう。
だがリオはまるで見知らぬ街で迷子になってしまったかのような、途方もなさに震えていたのだ。
蹲っていたところを保護されてからの記憶は、不思議と断裂している。
親が死んだと知らされたこと、そうして城の実験室に連れて行かれたこと、そこで加えられた苛烈な実験の数々。
かつては忘れるはずもないと思っていた記憶はしかし、年月が経ったいまや少し歪んで、少し薄れて、様相を変えつつある。
そうやって頭の中が整理されていくことは、今幸福であることの証であるのかもしれないが、リオにとってはやはり釈然としないものだった。
―――― 今でも時折、あの時の夢に魘されることがある。
傷つけた者は「それ」を忘れしまうのだろう。或いは、忘れたいと思っているだけなのかもしれない。
だが、それを為された方は忘れたくとも完全には忘れられないのだ。どれ程薄れようとも、過去は無になるわけではない。
今幸福であっても、そのことが免罪符となるわけではない。十歳の彼女はその事実を既に理解していた。
しかしそう思いつつも彼女は―――― 養父が時折見せる苦渋と悔恨の目を見る度、「忘れてしまえばいいのに」と誰にともなく願うのであるが。

顔を洗い、髪を縛って食卓に戻る。
用意された温かな食事。魔法研究以外にまったく何も出来なかった養父は、この七年で優しい味の料理を作れるようになった。
小さな村の片隅で二人身を寄せ合う生活。
それはリオに、城で暮らした最後の一月のことを連想させる。
彼女に温かい寝床を、料理を、愛情を、そして言葉をくれた人間。
ほんの束の間の生活のことを、リオは一生忘れたくないと願う。

「お父さん、私がやるね」
朝食を食べ終えてすぐ始めたのは昼食の料理だ。リオは腕まくりをすると小麦粉をこね始める。
養父は傍でそれをにこにこと見ていたが、漬け込んでいた鶏を取り出すと、魔法板でじっくり焼き始めた。
少女が時計を見るともうあまり時間がない。掃除をして着替えもしたいし、と焦る彼女に養父は笑って手を出した。
「後は私がやっておこう。着替えてきなさい」
「着替えたら、すぐ戻るから!」
とっておきの日には、それなりの格好をしなければならない。
ずっとこの日を待っていたのだ。今では半年に一度となった「彼女」が会いに来る日。
リオは急いで掃除を済ませると、着替えて厨房へと戻る。
クッキーを焼く父の手伝いをしてよい匂いが漂い始めた頃、玄関の扉を叩く音がした。リオと養父は顔を見合わせる。
玄関までの距離がこれほどもどかしいと思う日はない。
リオは扉の金具に飛びついて、鍵を開けた。
「ヴィヴィア!」
「ひさしぶり、リオ」
幼い子供を連れた女はそう言って微笑んだ。
かつての自分と同じくらいの年頃の子供。リオはその子の目に、かつての自分を重ねてみる。
―――― 愛され、守られる子。誰もがそうあればいいのだ。夢の中でも泣かずに済むように。

「リオ、元気だった?」
「もちろん! あがって、ヴィヴィア! クッキーが焼けるから」
窓から見える空は、いつの間にか晴れ上がっている。
無音の風と澄んだ青。天が見下ろす大地は、今日もそこかしこに安寧が満ちていた。