朽ちた王冠

mudan tensai genkin desu -yuki

開けた扉の先は、むせ返るような血臭が立ち込めていた。
奥行きのある広い謁見の間。
普段は天井が映りこむほどに磨かれた石床は、今は鮮血の水溜りがいたるところに出来ている。
それは、数十にも及ぶ人の死骸によって生み出されたものだ。
一閃で斬り落とされたのであろう女の首が驚愕の表情で転がり、誰のものかも分からぬ四肢が血溜まりの中に没している。
積み重なる死体の中には、兵士の服装をしたものも文官の服装をしたものもあった。
それだけではなく明らかに貴人と分かるものたちもそこには混ざっており、冷たい躯として無残に打ち捨てられている。
飛び散った肉片が特別なものとも思えなくなる惨状。凄惨という言葉では収まらぬ有様に、オスカーは眉を顰めた。
広間の片隅では年端もいかぬ少年が胸を一突きされ、うつ伏せに倒れて死んでいる。
孕んでいたらしい女は、膨らんだ腹ごと切り裂かれたのか、流れ出した血と羊水が混ざりあい饐えた異臭を放っていた。



二百年以上も昔。
この城の主は彼であった。人として生まれた彼が、人として生を送った場所。
その最後において、もう足を踏み入れることはないだろうと思った部屋を、かつての王は剣を手に歩いていく。
悲鳴は聞こえない。
今生き残っている者は皆、死を覚悟し戦う者のみであった。
右手だけで剣を握る満身創痍の男。片腕を失った女。宙を飛ぶ精霊らがただ一人の男を前に、死力を尽くして挑んでいる。
だが多対一である彼らの戦況は、お世辞にも優勢のようには見えなかった。
いまや殺戮者となった狂王。彼の手にある剣は、どれ程人を斬ろうとも刃が綻びることはない。
ディスラルは斬りかかってくる血族をいなしながら、高らかに笑い声を上げた。
その声は天井に反響して絶望を目前にした者たちに降り注ぐ。誰かの吐く息が血に落ちて跳ねた。
玉座の背後の壁にある天窓から青白い光が零れ出し、惨劇の一幕を切り取って照らす。
その幕を終わらせる男に、まだ誰もが気付かない。
オスカーは爪先を血で濡らしながら歩を進めた。
無念の形相で息絶えた者たちの死屍を行き過ぎ、全てを拒絶する王へと向かう。
剣が肉に食い込む鈍い音。小さな叫び。
そのようなものを受け止めながら、彼は怯むわけでもなく奥へと進んだ。
ディスラルに向かっていた一人の男が、彼に気付いて目を瞠る。
「あれはまさか―――― アカーシア……?」
世界に一振りしかないと言われる王剣。
そのもう一振りが意味する存在は、一人しかいない。
ディスラルは、今まさに斬りかかろうと上げていた手を止め、オスカーを見た。
笑うことをやめた目。深海の底のように冷え切って動かぬ双眸が、やって来た男を見下ろす。
「来たか」
「ああ」
「復讐に来たのか? それで殺されに?」
「お前は一体何をしている」
オスカーはアカーシアを持った手を右に一閃した。
空を切る音が、その場に立ち込めていた呪縛を切り裂く。
息を飲む生存者たちは二人の王を代わる代わる見やると、オスカーの無言の意を汲んだのか一歩退いた。
静謐と錯覚するような謁見の間。オスカーの硬い足音だけが尾を引いて響く。
ディスラルは玉座へと至る石段を上ってきた男に、薄い笑みを見せた。
「何をしている? 決まっている。血の清算だ」
「ならば何故あれを殺した」
「意味はない。ただ目障りだった」
彼らが誰のことについて話しているのか、他の人間には分からなかった。
それを知っても、最早どうにもならなかっただろう。「彼女」の死は他の躯たちと同様、既に起こってしまったことなのだ。



オスカーは足を止めるとディスラルを見た。
二対の青い瞳がそれぞれ、他者と繋がらない過去を擁して相手を捉える。
笑みを湛える狂王の目に、瞬間消しがたい怒りと苛立ちが沸き起こった。
彼は何かを言おうとして―――― だが自嘲ぎみに笑声を上げると、かつての王に向かって斬りかかる。
オスカーはその重い剣をアカーシアで受けた。
間断なく襲い掛かる王剣。殺戮を為してきた疲労感など微塵も感じさせない速度は、確かに歴代の王にあっても飛び抜けたものであったろう。
オスカーは僅かに眉を寄せつつその猛攻を捌き続けた。広間に剣の打ち合う高い音がこだまする。
ただの狂人のものではない剣筋。激情に駆られつつも冷静さを失わないそれに、オスカーは油断ならぬものを感じた。
ディスラルは高らかな笑い声を上げてアカーシアを振り下ろす。
「後悔しろ! 魔女を迎え入れた己の愚かさを!」
「それがお前の持つ理由か?」
隙なき隙をついて突きこまれる剣を、オスカーは一歩外に踏み出し受け流した。
すかさず追撃で薙いで来る剣を、アカーシアで受け止める。
―――― かつて「彼女」にも、似たことを言われたのだ。
強大過ぎる魔力の血を入れることに、亡国の遺産を継ぐことへの懸念を込めて。
だがそれらの持ちうる負は、越えられないものでは決してなかったと、オスカーは思う。
彼は息を止め、下から上に剣を振り上げる。それはディスラルのアカーシアを弾き、束の間の空隙を作った。
その間を狙う前に跳び退ったディスラルに対し、オスカーは口を開く。
「俺は、俺の妻を否定しない。俺の子を否定しない。俺の血を継ぐ子らが歩んだ道を否定することはない」
「ならば俺も、お前の生んだ畸形児だ!」
「ああ。だから、お前のことも否定しない」

一歩を、そしてもう一歩を踏み込む。
同じ血を、同じ剣を持つ二人の王。
二振りの王剣は彼らの眼前で交差した。オスカーは己の手に力を込める。
刹那の拮抗。
永遠にも思える瞬間に、―――― けれどひどく静かな声が、血塗られた広間に断罪を告げた。
「だが王とは、民を守る精神そのものだ」
ディスラルはその目を見開く。
僅かに軋む精神。生まれた揺らぎに、オスカーの剣は相手の剣を跳ね上げた。
歴史から秘されたアカーシアが、狂王の体を切り裂く。



凶行の終わりは、あっけなくも思えるものだった。
己の作る血溜まりに崩れ落ちたディスラルは、乾いた瞳で天井を見上げる。
その視界に佇む男に向かって、死に行く王は嘲りの言葉をかけた。
「お前は……その精神によって、いつかあの女を失うだろう……」
呪詛にも思える呟き。最後の一息を残して男は息絶える。
その死骸をオスカーは無感動な目で見下ろした。
淀んだ広間の空気が僅かに流れ始める。



ファルサスの長い歴史において、ディスラルのことを語る記述は、どれも血と畏怖に満ち満ちている。
死後も数十年に渡り王家に爪痕を残した廃王。
だが彼の抱く真実を知る者は、過去にも未来にも誰一人いない。
ただその道筋において、かつてファルサスを治めし逸脱者が二人、交差したのみである。