記憶の階

mudan tensai genkin desu -yuki

黒茶の瞳は数あれど、彼女ほど深い黒は珍しい―――― そう言ったのは、確か彼の仕える王であった。
ラジュは自分を見つめる闇色の双眸を見下ろす。広がる黒髪はか細い明かりに照らされ、海のように広がっていた。
彼が顔を寄せ瞼に口付けると、女は蕩けるような微笑を見せる。
「ラジュ」
揺らぐ感覚を頼りに、熱と息を分け合った。
細い両腕が首に巻きつく。
寄せられる躰。委ねられる存在。
陶然と艶を帯びて濡れる黒の瞳は、その奥に何処かへと下りていく階段を宿しているかのようだった。

ある日突然目の前に現れた女と、紆余曲折の末結婚してから一ヶ月。
城都での新婚生活は、ラジュにとっておおむね平和なものであった。
彼の妻は家事万能であり、家のことにまず不都合はない。
その上王の関心までもを引いた美貌と夫への深い愛情があるとあっては、伴侶として充分すぎるくらいであろう。
もっともそれに強大な魔力も加えると―――― 充分すぎて少し減ってもいいのに、ラジュは思っているのだが。
「ティナーシャ」
「はい」
隣で小さく欠伸を零していた妻を抱き寄せると、彼女は少女のように笑った。
ラジュは黒髪を撫でながら彼女の顔を見つめる。
外見だけで言えば三、四歳は年上だろうか。だが実際の年齢差は数十歳、下手をすればそれ以上あるだろう。
出会う前には何処で何をしていたのか、何故自分の前に現れたのか、未だに分からない妻を前に、だがラジュはそれを問うてみる気にはなれない。そのことを突き詰めれば、必然的に彼女の前夫に行き着いてしまう気がして触れたくないのだ。
九十年も前のこと―――― だがそれは、どれほど昔の話でも無ではない。
顔を顰めた彼は無意識のうちに両手に力を込める。
「ラジュ?」
「ん……何でもない」
かつて死別した夫がどのような男であったのか。まだその男への想いはあるのか。
知りたいと思いつつも問うことは出来ない。
それは彼のささやかな誇りであり、妻への愛情の現れだった。

闇色の瞳がまたたく。
その奥にはまるで階段が潜んでいるかのようだ。記憶の底へ、時の彼方へと下りていく道。
見つめていると、知らないはずのことまで思い出しそうな気がする。彼女と離れていた一年間、時折不思議な夢を見ていたように。
夫の腕の中で半ばまどろんでいたティナーシャは、ふっと微笑むと細い指を彼の頬に添えた。甘い声で囁く。
「もし、私たちが離れ離れになったのなら」
「何それ」
「別たれることがあったなら」
突然の仮定。だが、その言葉は「何か」を引き起こす。ラジュは妻の瞳を覗き込んだ。
女が宿す闇は安息と熱情を同時に孕んで彼を包み込む。
「その時は再び出会って……もう一度恋をしましょう」


頭の奥で、何かが煌く。
今はない時。交わされた約束。
あの時、自分は何であったか。彼女は誰であったか。


形になりかけたそれは、だが認識の手に触れる前に砕け散った。
ラジュは目を閉じ、眉を寄せる。体に感じる女の体温だけが「今」を訴えた。
数秒後、手に出来なかった「何か」を諦めた彼は深く息を吐き出す。
「―――― 分からない」
「ええ」
「もしそうなっても、俺を忘れない?」
「決して」
熱のこもった約束。
ラジュは妻に口付けると、もう一度その躰を組み敷いた。白い瞼に唇を寄せ、艶やかな闇色に舌を這わす。
彼女はそれ以上、何も語らない。何も教えない。
ただ従順に彼を受け入れて、ティナーシャは過去へと繋がる双眸を閉ざした。