殺めるべき影

mudan tensai genkin desu -yuki

メアが頼まれた買い物から帰った時、家の中にはばたばたとした足音が鳴り響いていた。
この家に住む二人の人間のうち、主人であるエリクはまずこのような走り方はしない。
ならばこの足音の主は、メアの主人である女だろう。
彼女は買い物籠を厨房のテーブルに置くと、主人の様子を見に行こうとした。
その時、走る足音が近づいてきて厨房に雫が飛び込んで来る。
「メア! おかえり!」
「どうかしましたか? マスター」
メアから見たところ、雫はどうやらいきりたっているようだ。
若妻、というか少女にしか見えないらしい女は腕まくりをした両手を打ち鳴らす。
「蜘蛛が出たの。でっかい蜘蛛! この家、ハエタタキとかないのかなあ」
「蜘蛛……ですか」
「そそ。見失わないうちに戻らないと……」
雫は手当たり次第その辺の戸棚を開けたりしていたが、探しているものは見つからなかったらしい。
代わりに紙を丸めたものを手に再び駆け足で厨房を出て行った。
厨房に静寂が戻ると、メアは買ってきたものを片付けに取り掛かる。

結局雫が戻った時には、大きな蜘蛛は既にいなくなっていたらしい。
「夜、顔の上を歩かれたらどうしよう」と悶絶する主人に、メアは何と言えばいいか分からず黙した。
夕食が終わり、後片付けが終わってめいめいが寝室に引き上げると、メアは小鳥の姿に変わり居間の窓辺で羽を休める。
寝床として置かれている籠に収まり、彼女が眠りに落ちようとした時―――― けれど、それは現れたのだ。
壁を伝う黒い蜘蛛。
大人の男の掌ほどもあるそれは、昼間雫が追っていたものであろう。
メアが頭を上げ蜘蛛を見つめると、向こうもそれに気付いたのかびくっと静止した。
暗い居間で、しばらく無言の睨みあい(?)が続く。
メアは動けない蜘蛛を見やると、嘴を開いた。
「外に出してあげてもいい。あなたが家の中にいると、マスターが嫌がる」
使い魔としてはこの蜘蛛を殺して、雫にそう報告した方がよいのかもしれない。
だが、「殺した」と「逃がした」―――― どちらを告げても主人はさして気にしないと思うのだ。それが近くに来ないのなら。
メアの提案の意味が分かったのか分からないのか、蜘蛛はそろそろと窓に向かって動き始める。
彼女は小鳥のまま魔力を使って窓を開けると、黒い影が夜の中に消えたのを見て、改めて鍵を閉めたのだった。

翌朝メアが雫に報告したところ、やはり笑顔で「ありがとう!」と言われた。
その時頭を撫でられた手が心地よかったのは、自分の選択と無関係ではないと、メアは思う。