翼を狂わせる

mudan tensai genkin desu -yuki

月のない夜だった。

全てが真の闇へと落ちて行きそうな夜。それをかろうじて留めているものは、机に灯された燭台の明かりだけであった。
退位を目前にした王、ウィルは最後の書類に署名を記す。
執務室内には他に誰もいない。廊下に出れば衛兵が控えているだろうが、彼らの気配を感じさせるものは何もなかった。
孤独を思わせる夜。王はペンを置き、窓の外を見仰ぐ。
―――― あっという間の三十年間だった、と。
そう振り返りたくなることが時折ある。自分が歩いてきた道を思い返すことが。
特にそれは、退位の日が近づくにつれ頻繁になってきていた。ウィルは、この上なく恵まれた己の身に思いを馳せる。
家族にも、臣下にも、民にも恵まれた人生。
申し訳なく思えるほどの幸福が、彼の周囲には溢れていた。だからこそ負うべき重圧も苦と思わずに済んだのだ。
感謝をしてもしたりない日々。だがそのような王としての毎日もまもなく終わる。
果たして自分は、父たちの期待に応えることが出来たのだろうか。ウィルは記憶の断片を拾い上げた。



気配はない。
だが物思いに耽っていた王は、露台で何か音がした気がして顔を上げた。
腰に佩いた長剣に手をやりながら立ち上がる。彼は息を殺し外の様子を窺った。
しかしウィルが扉に手をかけるより早く、露台への硝子戸はおのずから外へと開く。冷えた夜の風が吹き込んできた。
王はそこに立っていた人物を見て息を飲む。
「……ティナーシャ様」
「お久しぶりです」
細い声。
それは三十年も前に城を去った魔女のものである。
ウィルは別れた日と何ら変わらぬ彼女の姿に、分かっていながらも驚きを隠せなかった。
思わず駆け寄ろうとして―――― だが彼は彼女が抱いている何かに気づく。
白い布で包まれた大きな「何か」。彼女はその包みを、魔力を介在させてかすがりつくようにして抱き上げていた。
瞬間でウィルは、それが何者であるのか気付く。
「まさか」
「王の体を……返しに来ました」
「ティナーシャ様」
「ウィル。オスカーがしんでしまった」
虚ろな闇色の目が、初めて彼を捉える。
三十年ぶりに聞く魔女の声。
それは砕けて壊れた硝子のようだった。



ファルサスにおいて、代々王夫妻の遺体は劣化防止の魔法をかけられ城の霊廟に葬られる。
勿論それはオスカーとティナーシャについても同様で、だがオスカーの棺は空のままだった。
それを埋めに来たのであろう魔女は、ウィルが自ら棺を開けると、抱いていた遺体をその中に下ろす。
他の者の手は借りない。知らせてもいない。これは秘中の秘であり、だから王はあえて周囲の者を下がらせていた。
彼はティナーシャが父の遺体から布を解く様をじっと見つめる。
曝け出された体は今の彼のものより大分若く、懐かしい時代を思い出させた。もはや遠き日のことをウィルは思い出す。
「……呪具ですか」
「そう。一つ。こわして」
ティナーシャはぽつぽつと言葉を零す。
正気が揺らいでいるかのように、彼女の言葉には波が感じられた。
ふっと我に返ったかのように冷静な口調に戻ると、ティナーシャは数ヶ月前の事件について本の改訂を頼む。
魔女の要望に頷きながらウィルはしかし、訝しさを覚えた。
もしその事件によって父が死したなら、今までの間彼女はどうしていたのか。
遺体は劣化防止をかけていたとして、今日までティナーシャはずっとその傍に寄り添っていたのだろうか。
聞きたくとも聞けない彼の前で、魔女は石床に膝をつき棺の縁にもたれかかる。
眠る夫を見つめるように愛しげな目で、ティナーシャは冷えた体を見つめた。
「ウィル」
「はい」
「朝までには、出て行くから」
「ここに立ち入れる者はおりません。どうぞお好きなように」
「ありがとう」

もしもう一度会えたのなら。
その時には父と、彼女と、話したいことが山ほどあった気がする。
だが今ウィルはそのことを何一つ思い出せずにいた。小さな魔女の背中を見下ろす。
欠けてしまった一対。
かつて彼が見たその姿は、彼女を喪った父のものだった。
何か言葉をかけたくて、だがかけることの出来ない彼は、せめて彼女の邪魔をせぬようその場から遠ざかる。
足音をさせぬよう地上への階段に向かい―――― だがそこで、か細い声が彼の名を呼んだ。
「貴方がいて、よかった」
「ティナーシャ様」
「貴方がいて、トリアがいて、ルイスがいてよかった。
 もし貴方たちがいなかったら、私は全部を壊していたかもしれない」
最強の魔女、王に添った女は、ぽつりと感情を洩らす。
誰もが愕然とするであろう恐るべき言葉に、だがウィルは恐怖を感じることはなかった。ただ強すぎる思いがそこにはあるだけだ。
彼は深く頭を下げ霊廟を後にする。階段を上る際、聞こえた呟きがいつまでも耳に残った。
「どうやって貴方はこれを越えたんですか……?」
―――― 私には分からない、と魔女は嘆く。
それは寄る辺を失くし彷徨う鳥のようだった。



翌朝、ウィルが霊廟を訪ねた時、そこに魔女の姿はなかった。
ただ父の棺の上には純白の花々が溢れ返り、まるで花嫁が寄り添うかのように白い花弁が床へと広がっていたのである。