終末の唄

mudan tensai genkin desu -yuki

多量の血が流れたわけではない。
王族同士の争いが起きたわけではない。
ただ彼らは皆、それぞれの道へと散っていった。二度と戻ることなく、前だけを見て。



「ミラ」
その男の声は、長い歴史においてもっとも優しいものだった。
主人が呼ぶ己の名。宙に浮く精霊の少女は、空を見上げていた視線を外し、王剣を持った男を見下ろす。
「何?」
「怪我は」
「ない。ないに決まってる」
「ならよかった」
僅かに血の痕の残る頬を、彼は自分の指で拭った。
手入れもされず枯れ果てた木が居並ぶ中を、男とその精霊は分け入っていく。
背後に聳える城は煤けて、ゆっくりと崩れつつあった。
男は肩越しに灰色の城を振り返り嘆息する。
「皆もう、城を出ただろうか」
「出たよ。私たちが最後」
「そうか」
そう言って安堵する主人が何処に向かっているのか、ミラは聞いていない。
だが向かう方向からいって、その可能性は一つしかなかった。
かつて十二の精霊の像があった奥庭。いまだ追っ手の手が伸びていない場所を目指して、彼は歩いていく。

風は吹かない。
空は晴れ晴れと青く、澄み渡っている。
城から上る煙は薄い雲にもなれず、ただほんの少し上空を汚して消えていった。
穏やかに訪れた最後の日。やがて枯木の向こう、石の台座が見えてくる。
今は一つしかない台座。その前で男は立ち止まった。
優しい声が彼女の名を呼ぶ。
「ミラ」
「何?」
「ここでお別れだ」
それは予感していた通りの言葉であった。
石の台座の上に降り立ったミラは、主人の顔を見上げる。
「なんで?」
「ファルサスはもう終わる。お前は自由だ」



とても長い長い年月を、人の世で過ごしてきた。
本来ならば「長い」とさえ思わぬ時間。だが人との触れあいに慣れていった彼女は、己の道筋をそう思うようになったのだ。
かつて共に呼び出された同胞たちはもういない。
ある者は死に、ある者は人の世を去って、そうして一人ずついなくなっていった。
かつての魔法大国が継ぐ最後の精霊である彼女は、感情のない目で主人を見上げる。
「あなたがいるよ。まだ、あなたがいる」
「だがもう、私はファルサスの王ではなくなる」
国は滅び、城は陥つ。
それは暗黒時代から続く一国の、まぎれもない終焉であろう。
ミラは何かを言い募ろうとして口を開いた。
だが男はかぶりを振ると―――― 王剣を、台座に向かって突き差す。
魔力を持った者にしか聞こえぬ破砕音。
罅割れた台座と共に契約の縛は砕かれた。ミラは驚愕の目で己の体を見下ろす。
「さあ、お行き。……ああ、私の最後の願いを聞いてくれるというのなら、この剣を何処か人里離れた場所に隠してくれ」
「あなたは、一緒には行かないの?」
「私は私でこの城を離れる。ファルサスの王ではなく、一人の人間として」

それが優しい嘘だと、彼女には分かっていた。
最後の王。最後の直系。
国と共に滅ぶ一人の男。

ミラは両目を閉じる。
長い記憶の中に数多の王、愛しき主人たちが甦った。
そして今、主人を持たぬ身となった彼女は、ゆっくりとその姿を成長させる。
背を共に伸びていく真紅の髪。幼い少女のものであった貌が、鮮烈な女のものへと変わっていった。
刃物のような印象を持つ、人ならざる美しい魔族。
純粋で残酷で―――― そして愛情深かった彼女の目が、男を捉える。
彼は瞠目して、その双眸を見つめ返した。
「こちらが本当の姿?」
「違うわ。今、成長したの。子供でいられなくなったから」
「ああ……すまない」
男の手が白い頬に伸ばされる。ミラは黙ってその手を受けた。
髪と同じ色の両眼から涙が一筋零れる。
痛みのない傷が広がっていく時間。二人は束の間の時を共有した。





かつて魔法大国と呼ばれたファルサスは、病みつかれ衰えた果てにその幕を下ろした。
王家の血を継ぐ者たちは離散し、彼らの継ぐ精霊は消え、王剣は行方が知れない。
だが人の矜持と希望を伝え、時を渡っていったファルサスの遺産は、今も何処かに眠っている。
一振りの剣とそれを守護する女。
彼らは今も大陸の片隅で、新たなる継承者を待っているのだ。