微かな香り

mudan tensai genkin desu -yuki

夜の寝室は明かりの一つもなく、窓から差し込む月光だけが多くの影を生み出していた。
静寂が染み渡る寝台。夫の腕に身を預けて眠りかけていたティナーシャは、ふと目を瞠る。
「どうした?」
身じろぎをした訳ではない。だが気配だけでオスカーは、彼女が目を開けたことに気付いたようだった。
ティナーシャは大きな瞳で夫を見上げると微苦笑する。
「何でもありません」
「ならいいが」
頭を撫でてくる大きな手。その手の確かさに彼女は再び目を閉じる。
そして、だが彼女の頭の中には一つの疑問が浮かんでいたのだった。



「さて、どうしましょうかね」
王が既に執務を始めている時間。
寝起きの悪いティナーシャは転移で浴室まで行くと、言うことを聞かない体をひきずり風呂に入っていた。
ようやく覚醒してきた意識の中で、彼女はしきりに首を捻る。
―――― どうもここ一月ほど、オスカーの体から覚えのない花の香りがするのだ。
勿論彼女自身のものではなく、男が纏うような香りでもない。
毎回少しずつ異なるとはいえ、いつも似通ったその香りは、明らかに女性が身につけるものだろう。
城から出ることもなく執務を行う毎日の中で、一体いつ誰と移り香がつくほど逢っているのか。魔女は考え込む。
「気に入った人がいるなら言えばいいと思うのですけどね」
今はティナーシャ一人が彼の妻となっているが、本来彼は複数の妻を持てる身分なのだ。
当然の権利であるのだし、遠慮せずに自分に言ってくれればいいのにと、溺愛される王妃は心の中で呟く。
そう泰然と構えていられるのも、彼女が嫉妬心という感情を風化させてしまっている人間だからなのだが、オスカーの方はそれを知っていても気を使っているのかもしれない。
こちらから切り出すべきか、向こうから言い出すのを待つべきか、彼女はお湯の中に沈みながら悩んだ。重ねて浴槽の縁にかけてある爪先だけが、水上に残る。
そこに、いつまで経っても起きてこない彼女を心配したのか、パミラがやって来た。
「きゃああああああ! ティナーシャ様っ!」
「う?」
空気の玉を作って沈んでいたのだが、溺れていると勘違いされた。
臣下から嗚咽混じりの説教をされて、ティナーシャは反省すると、その晩思い切って香りのことを本人に尋ねてみることにしたのである。



夜明けと共に目覚める王が自室に戻るのは、夜もすっかり更けた頃だ。
一足早く寝室に戻っていたティナーシャは、夫が帰ってきたらまずその話を切り出そうと思っていた。
だがやって来たオスカーは妻の頬に口付けると、「やる」と言って硝子の小瓶を渡してくる。
薔薇を模した美しい装飾の小瓶。手の中に収まるほどのそれは―――― 見るからに香水瓶であった。
ティナーシャが中を開けてみると、ここ最近夫の体に移っていた香りと同じ匂いがする。
「これ……」
「中庭の薔薇を使って作らせた。お前は切り花を好まないからな。
 だが時期が過ぎると香りが懐かしくなるだろう?」
「……ひょっとして、今まで何度か試作品を作らせたり?」
「した」

種明かしをされてしまえば何ということはなかった。
ティナーシャはお礼を言いつつも、夫を疑ってしまった居心地の悪さに肩を落とす。
その様子を見て、オスカーは怪訝そうな顔になった。
「どうした? 気に入らなかった?」
「い、いえ……気に入りました。嬉しいです」
「ならどうした」
「うう」
口ごもる魔女は、寝台の上ばたばたと暴れる。
まるで悪いことをしてしまった子供のような姿を見て、勘のよいオスカーは正解にたどり着いたらしい。人の悪い笑みを見せて妻を膝上に抱き上げた。
「何だ、妬いたのか」
「妬いてないです。すみません」
「別にいいんだぞ? 正直に言ってみろ」
「妬いてないって!」
子供がいないせいか結婚後数年経っても新婚のような二人は、じゃれあいながらお互いの体温に安堵する。
そうしてその日から優しい薔薇の香りは、王妃である魔女のものとなったのだった。