気付かない意味

mudan tensai genkin desu -yuki

彼女の特異性は、城に仕える全ての人間が知っているわけではなかった。
一部の魔法士や武官、学者たちの間では彼女は有名な存在であったが、それとて全ての情報が行き渡っているわけではない。
むしろただの女官たちからすると、彼女は病によって言葉を失った、単なる変わった人間であった。
そしてだからこそ女官たちは大した疑問も持たず、彼女のことを請われて教えてしまったのだ。
城内で暮らしている言葉の不自由な女。
雫についての話を一通り集めた男は、しばらく前に欲にまみれた野心によって王から遠ざけられた貴族の一人だった。

「お前、そこのお前だ」
勉強がてら子供たちと遊んだ後の帰り道、城内の廊下で呼び止められた雫は、自分の顔を指差して首を傾げた。
身なりのよい中年の男は、尊大に頷くと「こちらに来い」と手招く。
突然の命令に、だが彼女は怪訝に思いつつも素直に従った。男はじろじろと雫の全身を眺める。
「なにか、ごよう、ですか?」
一度はまったくこの世界の言葉が分からなくなった雫ではあるが、もともと読み書きはある程度出来る。
そこに自身が子供用に作っていた教材をあわせて、今は簡単な会話であれば何とか可能なくらいにはなっていた。
もっともそれは英語を習い始めの子供が、教科書どおりの会話が出来るという程度のものでしかなかったのであるが。
男は鼻を鳴らすと「ついて来い」と踵を返した。
雫はその命令が聞き取れなかったものの、意味を察して男の後をついていく。
その間、男は何やら不機嫌そうにぶつぶつと洩らしていた。

何だか様子がおかしいと雫が気付いたのは、男が城の建物を出て裏門へ向かっていると分かった時のことだ。
彼女は周囲を見回し、他に誰もいないと見て取ると足を止めた。気配で気付いたのか男が振り返る。
「どうした。さっさと来い」
「ど、こへ?」
「いいから来い! 世話を焼かせるな!」
乱暴に腕を掴もうとする男の手を、雫は咄嗟に飛び退いて避けた。
しかしその回避動作は相手の怒りを余計に煽っただけらしい。男は顔を真っ赤にして掴みかかってくる。
―――― こうなってはさすがにおかしいと、雫も確信した。
彼女は身を翻して逃げ出そうとし、だがすんでのところで手首を掴まれる。
そのまま乱暴に引き寄せられた雫は、悲鳴を上げようとして口を押さえられた。小柄な体はずるずると引き摺られる。

もし以前のように、言葉が通じる状態であったのなら。
雫は相手が誰か、目的は何か、まずそれを問うただろう。
だが彼女は聞いても理解出来ないそれらを尋ねようとはしなかった。
むしろ言葉の分からぬ自分を呼ぶのだから、大して面倒なことがない用事だと思い込んでしまったのだ。

口を塞がれた雫は男の足を狙うと、体重を込めて思い切り踵で踏みつけた。
短い悲鳴を上げて拘束の手が離れると、彼女は城の方へと駆け出す。
だがその逃走はすぐに失敗に終わった。一つに編んでいた髪を引っ張られ、雫はその場に転倒する。
眼前に広がった空。
怒りに目をぎらつかせた男が拳を振り上げるのが見えた。彼女は咄嗟に両手で頭を庇う。
この一年の間に身に染み付いた防衛本能で、雫は身を竦めた。

しかし、続く衝撃は一向にやってこない。
不思議に思った雫が恐る恐る目を開けてみると、当の男は苦痛に顔を歪めていた。
彼が振り上げていた腕は、別の男によって背の方へと捩じ上げられている。不快げな顔の魔法士は氷のような声をあげた。
「彼女をどうしようと?」
「は、離せ! この魔法士風情が!」
「質問に答えるのが先です」
「エ、エリク」
雫が彼の名を呼ぶと、エリクは軽く頷いた。ゆっくりとした発音で「立って、待ってて」と言う。
言われた通り彼女は砂を払って立ち上がったが、エリクと男はますます揉めているようである。
言葉を聞き取れないながらも分かる不穏な事態に、雫は何をすべきか迷った。その時、背後から誰かに肩を叩かれる。
「無用心」
「あ、王様」
雫の呼ぶ声で気付いたのか、腕を捩じ上げられたままの男は現れた王を見て蒼ざめた。
ラルスはにやにやと笑ってそれを見やる。
「俺は別にこの娘はどうでもいいけどな。何かの取引材料に使えるとでも思ったか?」
「へ、陛下……」
「よし、腕の骨でも折っていいぞ。殺さない程度に好きにしろ」
「人の骨を折って楽しむ趣味はありません」
「俺は結構楽しいぞー」
「ならお任せします」
エリクが吐き捨てて男を放り出すと、入れ違いでラルスが逃げ出そうとする男の襟首を掴んだ。
雫は悲鳴を上げる男を前に呆然とする。戻ってきたエリクが「帰るよ」と彼女の手を取った。
「い、いいんですか?」
「いいよ。向こうの問題だ。君は関係ない」
「でも」
「いいから。戻るよ」
有無を言わさず来た道を戻る雫の背後で、男の絶叫が聞こえた。
しかしエリクは眉一つ動かさない。珍しく機嫌が悪そうな男の横顔を彼女はびくびくと見上げた。
「ご、ごめんなさい」
ようやく口に出来た謝罪。エリクは足を止め、彼女の手を離す。
そうして彼はまじまじと雫を見つめ少しだけ表情を緩めると、「気をつけてね」とその額を叩いたのだった。

この数日後、雫はファルサス城を出てワノープの町に戻ることになる。
だが結局彼女は、この時の貴族の男がどうなったのか、誰の口からも教えてもらうことは出来なかったのだ。