最後の夜

mudan tensai genkin desu -yuki

国の名は覚えていない。
それは、彼女が戯れで滅ぼした国の一つだった。虚飾と優越が夜毎煌びやかな光を放っていた国。
彼女はそこで、あの男と別れた。
それはずっと望んでいた解放で、棘のように疼く喪失だった。



城の広間には日付も変わろうという夜にもかかわらず、多くの人が集い、酒を酌み交わしあっていた。
鳴り止まない音楽。鮮やかな絹のドレスが照明の光を反射して輝き、絡み合う笑声が傾いた世情を糊塗する。
贅を尽くした食事と湯水のように消費されていく酒。溢れかえる宝石や華やかな明かりは全て、城外の荒廃と引き換えのものだ。
街の片隅では今も民が飢え、子供たちがくるまる布もなく冷え切った路地裏で死んでいく。
病人たちには医者も薬も与えられず、何もかもを奪われた人々が緩やかに終わる時を待っていた。
既に国境に迫っているという隣国軍。
その現実さえも、城に集まる彼らの耳には煩わしいものとして入っていかない。
都合の悪いことは聞こえないのだ。―――― この国の王がそうであるように。
広間の奥、数段高い玉座には一人の男が座っている。
四十歳を過ぎたばかりの王。数年前までは精力的に他国への侵略を図っていた彼も、今は人が変わったかのように虚脱した瞳を広間へと投げかけていた。
玉座の隣で一人の女が嫣然と微笑む。
王は寵姫である彼女に向かい、乾いた声をかけた。
「レオノーラ、踊って来い」
「どなたと踊れば?」
肘掛に腰を預け王の体にもたれかかる彼女は、傾国としか言いようのない艶かしさを持っていた。
事実、毎夜毒を吹きかけるように王の精神を蝕んでいった彼女は、内心の嘲弄を押し隠して男に寄り添う。
彼はその指で、広間の中央にいる青年を指差した。
「奴が、来ているだろう」
枯れた指が差す男に、レオノーラは沈黙する。
その先には二人の視線に気付いたのか、皮肉げな微笑を浮かべる「王」が立っていた。



長いドレスの裾を持ち、紅い絨毯に覆われた階段を下っていく。
レオノーラはその先に待っている男に触れたくなくて、だが足を止めることも出来なかった。
銀髪の男は優美な仕草で彼女に手を差し伸べる。
「どうぞ一曲、お相手を」
「喜んで」
緩やかな曲に乗せて踊り出す男女。
美貌の組み合わせに広間の視線は集中した。自然と人が避け、二人だけの空間が出来上がる。
踏み出す足捌きの一つから艶やかな視線まで洗練された二人。
だが彼らに向けられる視線の中には、下卑た好奇心に満ちたものも混ざっていた。
王の寵姫であるレオノーラは、もともとこの男が宮廷に姿を現した際に伴っていた女なのだ。
美しい女を一目見て王は、彼女を後宮に収めるよう男に命じたが、男は喜んでそれに従ったという。そして彼は、爵位を得た。
「恋人を売って権力を得た男」
そんな評判が付きまとう青年は、悠然と微笑みながらレオノーラの手を取り、優雅に回る。
彼は彼女だけにしか聞こえぬ声で、喉を鳴らし笑った。
「なかなか面白かった。もっと早く滅びてもいいくらいだけどな」
「早い方よ。王は元々強い人間だった」
「あれがか?」
虫けらのように人の王を嘲笑う男に、レオノーラは冷めた目を向ける。
一分の乱れもない踊り。それは、彼らがそれなりの年月を共に過ごしてきたことを意味していた。
トラヴィスは不意に足を止めると、目の前の女を見下ろす。
「俺はもう行くぞ。次は一人でやる」
「そう」
ならば彼は、彼女を殺す気がないのだろう。
彼が自ら彼女を殺す時、それは遊びを終える時と同義だ。
踊ることをやめた男女は、ほんの短い時間じっとお互いを見つめあう。
まばゆい光。
ざわめき出す人々。
だがそれらを余所事のようにトラヴィスは無視すると、レオノーラの顎に指をかけた。目を閉じぬ女を犯すように深く口付ける。
「じゃあな」
顔を上げた男が残した言葉は、それだけのものだ。
次の瞬間彼の姿はその場から忽然と消え去る。
大きくなるざわめきにレオノーラは溜息をついた。零せなかった呟きが唇から洩れる。
「もしもあなたを」



―――― だがそれは、彼女の力では到底叶わない。



愛してはいなかった。
憎んでいたのかもしれない。
自分を蹂躙し、そして傷が癒えるまでの間、連れ歩いた男。
レオノーラは手の甲で唇を拭う。傲然と上げられた視線には誰の姿も映らなかった。
豪奢な広間の中央、魔女は可笑しそうに笑い出す。



国の名は覚えていない。
戯れで滅ぼした国の一つだ。王の名も記憶にない。
ただ一つ、あの国で過ごした最後の夜のことは、今でも覚えている。
彼の手を取り最後に踊った夜。
目に映る全てのものは偽物で―――― レオノーラはその晩ようやく解放された。