細く途切れそうな糸

mudan tensai genkin desu -yuki

体が重い。喉が渇く。
それは腹が膨らんでいくと共に強くなる感覚で、オルティアは変わってしまった自分の体に、煩わしさを覚えずにいられなかった。
執務を終え自室に戻ると、彼女は水差しから水を汲んで飲み干す。軽くよろめきかけたところに、手が差し出された。
「王妃、こちらへ」
「妾は王妃ではない」
ファルサスから来た精霊は、何度訂正してもオルティアのことを「王妃」と呼ぶ。
或いは人とは違う思考を持つ上位魔族にとって、「妃」とは単に王の子を産む女のことであるのかもしれなかった。
オルティアはリリアの手を取ると、揺り椅子に深く座る。
人ならざる女は壁際に下がろうとした。
「待て」
「何でしょう」
オルティアを見返すその瞳は、人としてはあり得ない程に清んでいた。
時の磨耗によって研磨されたのではない、最初から「違う」瞳。
このようなところにも、至るところにも違和感は落ちている。
人外とそれを擁する魔法大国について、彼女はしばしば見過ごせぬ異様さを感じることがあるのだ。
女王は目の前に存在する隔絶に向かって問う。
「お前は、過去他の王族についたことがあるのか?」
「幾度となく」
「どのような人間たちだった?」
持っているのは他愛もない好奇心だ。この機を逃して王家の精霊にその歴史を尋ねることなど出来ないだろう。
オルティアは肘掛に体を持たせかけると精霊を見仰ぐ。
「王もいました。王にならなかった者も、妃になった者も
 皆、強い方たちであったと思います。ただそれは、必ずしも精神について言える訳ではございませんでした」
「……そうであろうな」
精霊の継承を許されるファルサス直系は皆、魔法なり剣なりにおいて秀でた者たちばかりであった。
だから過去彼女の主人であった者たちは皆強く在ったのだろう。ただ人とは、それだけではないのだ。
自然と過去の自分に思いを馳せるオルティアを前に、精霊は微笑む。
「ですが、王族の、王の本質とはそもそも力と孤独でございましょう。
 人間は全ての者がその本質に耐えられる訳ではない」
「ああ」
自らも女王であるオルティアは肯定を返す。
力と孤独―――― まさにその二つを抱えて王は立つものなのだ。それでも強さを体現して。

精霊の女が軽く眉を上げる。少しの間を置いて、隣の部屋から続く扉が開かれた。
現れたラルスは、頭を下げるリリアに命じる。
「ご苦労。今夜は俺が代わる」
「かしこまりました」
精霊が姿を消すと同時に、ラルスは座っているオルティアの前に立った。
大きな手が髪に差し込まれ、男の親指がそっと瞼に触れる。
「調子はどうだ?」
「変わりない」
「ちゃんと食べてるか? 気分悪くなったりしてないだろうな」
青い瞳はオルティアの貌だけに注がれている。
頬を、髪を撫でて行く手。優しい感触に彼女は眉を寄せた。
ラルスは一通りを確認すると、ようやくオルティアの腹を見下ろす。

そのような彼の仕草は、いつでも彼女に小さなささくれに似た苛立ちをもたらす。
契約によって子を産む女の、身篭った腹ではなく、まず彼女自身を案ずる態度。
まるで子よりも彼女が大事であるかのような振る舞いは、決して愛情から来るものではなく、また計算によるものではないのだ。
オルティアは、自分の髪を引く男の手を振り払う。
「触るな、鬱陶しい」
「あ、カリカリしてるな? 女は身篭るとカリカリするっていうし。お前はいつもカリカリしてるが」
「目の前の男の顔が不愉快でな」
傲然と彼女が言い捨てると、ラルスは楽しそうな表情になった。
王は手を伸ばすと、以前よりも重くなったオルティアを軽々と抱き上げる。
「よし、寝ろ。寝るぞ。起きてると体によくないし煩い」
「煩いのはお前だ!」
少しの振動も与えられず寝台に運ばれる体。
目を閉じろと瞼に触れてくる指に、オルティアは吐息を零す。

彼女に注がれる全ての温かさ。
それは愛情ではない。単に彼に染み付いた「見せる為の余裕」だ。
強くあらねばならぬ人間が、他者へと与える寛大さ。
王が示す強靭さと慈悲は、オルティアに彼の孤独を思わせる。
―――― 欲することを許されなかった。
欲してはならない。彼に望まれたことはただ、与えることだけだ。
だからラルスは寛大な王で在る。まるで愛しているかのように女を抱く。
その空虚を理解するオルティアは……何も言わず何も返さなかった。

抱き寄せられる体、触れてくる唇の温もりに、女王はそっと乾いていく。
遠い窓から蒼白の光が差し込み、静けさが彼らの外側を冷やした。
一人一人眠りに落ちる時間。区切られた世界で彼らは束の間、強く在ることをやめる。
それだけの孤独な休息に、だが途切れぬ「何か」はあるのだ。
左手を腹に、右手を男の腕に回し、オルティアは寝台に沈み込む。
夜は明けず、ラルスは女の髪に口付けると、ただ黙って目を閉じた。