この手に余るほどの真

mudan tensai genkin desu -yuki

「あら、珍しいものがいるじゃない?」
センが聞いた彼女の第一声は、そのようなものだった。
次の瞬間彼は、精神魔法の紡ぐ網によって屈服を命じられた。

圧倒的な力を持ち、魔法大国の「精霊」として人間階に存在する上位魔族にとって、多くの人間はとるに足らぬ無力な存在である。
例外は主人であるトゥルダールの王や幾人かの突出した魔法士のみであり―――― その頃まだ、「魔女」を知る者は少なかった。
だから彼は、突如自分に襲い掛かった女がこれ程までの力を持っているとは思ってもみなかったのだ。
概念を元とする上位魔族にとっては相性の悪い精神魔法。
その精神魔法を恐ろしい練度で振るい彼を捕らえようとする女に、センはいささかの腹立たしさを抱えながらも防戦一方に回らされていた。上空で短距離転移を繰り返し、迫る女から距離を取る。
微笑しながら追ってくる女は、ひどく得体のしれない空気を漂わせていた。
まるで異質な硝片のような。よく知っているはずなのに思い出せない記憶のような。

彼は新たな転移先を指定しようとし―――― だがその構成は完成直前で崩れ去る。
視界の隅に転移してきた女は、艶のある笑みを見せて再び捕縛の構成を放った。
センは構成に絡め取られ舌打ちする。
転移を封じられ、精神に侵入される。体が上手く動かない。意識が遠のく。
定義を奪われ無力化されれば、それが敗北と同義だ。
彼は個の意識を持ってから初めての経験を前に、だが落ち着いて目を閉じた。女の気配が眼前に迫る。
「捕まえた」
明るい声。手が手に触れた。
望むものを放そうとしない屈託のなさ。その愚かさに、センは内心笑い出す。
目を開けると同時に女の手を引いた。胸元に転がり込む彼女の首を狙って、左手を振るう。
その瞬間見たものは、刹那で琥珀から転じた金の瞳だった。



彼女の体は人のものと変わりがなかった。脆弱で温かな体。柔らかい重さに甘い香り。
「気に入ったから」というだけの言葉で自分に抱かれた「魔女」を、センは訝しく見下ろす。
滑らかな肌に夜着だけを羽織り、寝台に寝そべる女は、既に琥珀色の瞳に戻っていた。
彼女は小さなやすりで己の爪を整えながら笑う。
「精霊? 面白いこと言うのね。へえ。トゥルダールの精霊、か」
「お前の名は、それは」
「言ったら駄目。そっちは真名だから。―――― ルクレツィアと呼びなさい」
ルクレツィアはくすりと笑うと体を起こした。妖艶さと穢れなさが同居する眼差し。
その意味するところを知ったセンは、畏れに似たものを覚える。
間近に彼女を捕らえた時、殺せると思ったのだ。だが殺せなかった。
それは彼女に未知の要素があったからで、けれど全てを知った今は、殺さなくてよかったと心の底から思う。
そんな男の思考が伝わったのか、ルクレツィアは少女のように悪戯ぽく笑った。
「何、気にしてるの? 忘れなさいよ」
「忘れられるか」
「忘れなさいよ。私は忘れるわよ。自分の名も、存在の意味も」
軽く投げられた言葉にセンは息を飲む。
それは、精神を主とする彼らにとっては信じられぬことだ。自分を忘れ、時を越えていくなどということは。
だが「名前を忘れた女」は、それが何の苦でもないように泰然と構えている。
ただひたすら生き続けることで、己が役目を果たそうとしている。
ルクレツィアは彼に顔を寄せ、啄ばむように口付けた。
気の向くままに愛し、忘却し、佇み続ける―――― その精神を美しいと思ったのは、この時が初めてだった。



彼女から贈られた指輪は、彼が上位魔族であるがゆえに圧し掛かる「忘却」を阻害する力を持っていた。
「忘れたくない」と、そう頑なに主張する男に何を思って彼女がそれを作ったのか、センには理解出来ない。
ただ彼女と別れ、指輪を返し、悠久の時を越えた後も、彼は時々、まるで奇跡のように彼女の真名を思い出す。
それは魔女となった娘から零れ落ちた、誰にも拾われぬ記憶の断片であるのだ。