透明な水滴

mudan tensai genkin desu -yuki

よく晴れた日の空は、まるで子供が染料を塗りたくったかのように、のっぺりと青いものだった。
丸みを帯びた雲がのんびりとした速度で流れ、生温い風が時折地表を撫でて行く。
寧日を切り取ったような午後の時間。
シエラは庭に出て夫と共に踊りの練習をしていた。高い踵が熱された青草を踏み、微かな音を立てる。
夫の手を取りながら足捌きだけに集中していた彼女は、けれど踏み出す足を間違え夫を踏みそうになった。慌てて避けた拍子に転びかける。
ルイスは素早く彼女の腰を支え、転倒を防いだ。
「踏んでいいんですよ、シエラ」
「ご、ごめんなさい」
こうやって転びそうになってしまうのは、もう何十度目のことか分からない。
その度にシエラは、「次は同じ失敗はしないようにしよう」と気をつけるのだが、まるで水漏れの穴を手で押さえるように、こちらを気をつければあちらで失敗してしまう。なかなか完璧に踊ることの出来ない現状、せめて夫の足を踏まないくらいにはなりたかった。
シエラは汗の滲む額を手の甲で拭う。柔らかい風が耳元の髪を揺らし、束の間の清涼感をもたらした。
彼女は熱されてしまった靴の踵を見やる。
「ファルサスって本当に暑いのね」
「ああ。中に入りますか?」
「ううん。外が好きなの」
未だ上流階級を思わせる屋敷に気後れを感じている彼女からすると、草木が溢れる庭の方がずっと落ち着くのだ。
だがやはり、暑いものは暑い。
シエラは美しい庭園を見回し首を傾げた。岬の上に住んでいた頃を思い出す。
あの頃は海風がきつく寒暖が激しくて、決して住みやすい状況とは言えなかったのだ。
ただそれを差し引いても、目の前に広がる海の眺めが彼女はとても好きだった。
日の光によって鮮やかに煌いていた海。潮の匂いを懐かしく思い、彼女は目を閉じる。
ほんの一瞬、意識が遠い場所を彷徨い、シエラはほろ苦くも微笑んだ。
そうしていると、夫の手が彼女の髪を梳く。
「シエラ?」
「あ、ごめんなさい」
物思いに耽っていた彼女は、我に返ると夫の手を取った。再び足下を見つつ踊りの練習を始める。
そんな妻の貌をルイスは一瞬不可解そうな表情で見下ろすと、何かを考え込むように真面目な面持ちになったのだった。



以前、夫の義理姉である王妃と会った時、シエラは彼女に浜辺の砂を瓶詰めにして贈ったのだが、後日それを使って作られた箱庭を見せてもらった。
青い水に白い砂。美しい箱庭は、見たこともない景色でありながら、何処か郷愁を呼び起こす。
胸を熱くさせる記憶の中の浜辺。シエラにとってそれは、母と暮らした思い出と繋がっているのかもしれなかった。



それから数日、ルイスは多忙なのか、朝早く出かけては夜遅くに帰る生活が続いた。
シエラは日中一人で勉強を重ねながら、時折休憩しては遊びに来た友人と談笑する。
掃除や料理、洗濯や庭の手入れなどを自分でしなくていいのは、楽ではあるのだが未だ慣れない。
シエラは忙しく立ち働く使用人たちを眺めながら、せめて自分は自分のすべきことをしようと机に向かった。
そんな日々が続き、ある日彼女は夫に呼び出される。

「ルイス、忙しいのはもう終わったの?」
「とりあえずは。淋しい思いをさせてすみませんでした」
さらりとした言葉にシエラは思わず赤面する。こういうことを臆面もなく言えてしまうあたり、彼は育ちが育ちなのだろう。
何も言えずに溜息をついた彼女は、ルイスに手を取られて顔を上げた。
美しい容姿で知られる王弟は、年若い妻に笑いかける。
「久しぶりに踊りの練習につきあいましょう。天気がよいですよ」
「うん。ありがとう」
十日ぶりに出た庭は、少しだけ風の匂いが変わっているような気がした。
それを気にしつつも練習を始めようとするシエラに、だがルイスは庭の奥を指差す。
「ほら、見てみなさい」
「何?」
近づけば聞こえてくる微かな音。空気の中を清涼に響くそれは、庭を流れる水の音であった。
いつの間に作られたのか、白く磨かれた石が円形の池を形作り、そこには清んだ水が湛えられている。
日の光を反射する水は池から小川となって、庭の隅を滑らかに蛇行していた。
驚くシエラが近寄ってみると、水の底には白砂が敷き詰められている。
「これ、どうしたの?」
「作らせました」
「え、いつ……」
「昨日までの間に。十日程で」
まったく気付きもしなかった変化にシエラは唖然とする。
確かにここ数日、庭を行き来する人影を頻繁に見かけたものだが、まさかこのようなものが作られているとは思ってもみなかった。
シエラは王族が持つ力というものに、呆れ半分感嘆半分の思いを抱いて夫を見上げる。
「どうしたの急に。気分転換?」
「いえ、こういうものがあった方が多少涼しく感じるでしょうから。
 ―――― さすがに海は作れませんでしたが」
彼の声には最後に、ほんの少しだけ苦味が混じっていた。
シエラはその意味に気付いて息を止める。

慣れない気候に困る妻へのちょっとした気遣いなのかもしれない。
王妃が作ったという箱庭の話を耳に入れた可能性もあるだろう。
だがシエラは彼の目に、かつて見た孤独に似たものを感じ取った。
思わず彼女は夫の服の胸元を両手で掴む。
「あの、私、淋しかったわけじゃないの!」
城都に来てからというものの酷く甘やかされてきたシエラは、何度か過保護なルイスに「そこまでしないで欲しい」と訴えてきたのだが、それは程度こそ大人しくなれど無になることは結局なかった。
シエラはその度に、夫と育ちが違うせいだと自身を納得させてきたのだが、ルイスにとってはそれだけではなかったのかもしれない。
―――― たとえば慣れぬ暮らしに疲れた妻が、元の海辺に戻りたいと言い出さないようにと。

「帰りたいわけじゃないの! ちゃんと言っておくけど、ただ少し思い出しただけで……」
「すみません」
突然服を掴まれ目を丸くしていたルイスは、妻の訴えの意味することに気付いたのか苦笑した。大きな手がぽんぽんと彼女の頭を叩く。
優しげに細められた双眸には少しの罪悪感が映っており、それは彼女の危惧があながち外れてはいなかったことを意味していた。
シエラは更に言い募ろうとし、だが自分の手が彼の服に皺を作っていることに気付くと、慌てて指を離す。
「ごめんなさい」
「いえ、僕がよくないんですよ。短絡的な手段であなたを繋ぎとめようとしたんですから」
「私、何がなくたっていい」
「ええ」
そのことを分かっていて二人は夫婦となったのだ。
子供に恵まれることのない夫婦。けれどシエラは充分幸せを得た。
それを知りながら負い目を拭い去れなかった男は、妻の体を腕の中に抱き寄せる。
「すみません。あなたを疑うような真似をして」
「普通でいいのに。最初に会った頃はあなたもっと意地悪だったでしょ」
「……それは失礼しました」
ルイスは苦い顔になると、それでも笑った。
シエラは夫の微笑みに笑顔を返す。

長い人生の残りを共に歩いていく二人は、時折立ち止まり言葉を交わす。
知っていたはずのことを確かめる。忘れかけていたことを思い出す。
そうして続く道はいささかに不器用なものだろう。だがそれでいいと、シエラは思っていた。
彼女は夫の腕の中を離れると、おもむろに草の上へ靴を脱ぎ捨ててしまう。
そのまま池の縁に腰掛け、素足を水の中に浸した彼女は、子供のような顔で夫を手招きした。
ルイスは苦笑しながら彼女の誘いに応える。
「こうやって足だけでも水に入ると、意外と涼しくなったりするのよ」
「そのようですね」
「あ、でも他の人には内緒にして……お行儀悪いって怒られるから」
透明な水の中伸びる足は、生き生きと立つ彼女自身を表しているようにも見える。
笑いながら小さな足が跳ね上げた飛沫。
ルイスは顔を上げると、空中で光るその滴を眩しそうに見上げたのだった。