行き場のない苛立ち

mudan tensai genkin desu -yuki

ファルサスの一領地を治める領主アルノ・ガルヴァノとその妻レウティシアは、領民たちからは非常に仲睦まじい夫婦として知られている。
一見すると、人のよさそうなだけの平凡な男と、王妹であり絶世の美女である女の組み合わせ。
彼らの婚約が発表された時、貴族たちの多くはその理由が思い当たらず首を傾げたものだが、当人たちにとってそれは至極自然なことであった。



「アルノ!」
鐘のようによく通る声には少なくない批難が滲んでいる。
かつては宮廷魔法士たちの心胆を寒からしめた声。
突然執務室にやって来た妻の力ある呼び声に、しかし仕事をしていたアルノは笑顔で応えた。
「どうしましたか?」
「どうしましたか、ではないわ。何故、クエア公爵家からの招待を受けたの?」
「ああ。折角招待されましたので、ご挨拶に行こうかと」
整った顔を険しくさせているレウティシアとは対照的に、のほほんと笑うアルノは、ちょっと近所に遊びに行って来るとでも言わんばかりの軽さである。
その反応に彼女はますます顔を顰めた。
「行く必要はないわ。あのような俗物に挨拶なんて」
「いやあ。大丈夫ですよ。僕一人で行ってきますから」
アルノとは遠縁にあたるクエア公爵をレウティシアが嫌っていることは、この城では皆が知る事実である。
年が上であるというだけで尊大に振る舞い、アルノを無能な若輩として軽く見る公爵は、かつて彼らの婚約を知った際「自分の息子の方がずっとふさわしいのに」と周囲に吹聴して彼女の不興を買っていた。
その時は直接文句を言おうとしたレウティシアをアルノが宥めて事なきを得たのだが、そんな事情をまったく知らないクエア公爵は、その後もしばしばアルノに対し「年上からのありがたい助言」を加えてきている。
今回も、意味のない「助言」を山ほど貰うであろう夫に、レウティシアはなおも言い募った。
「私があの男に会わなければいいというわけではないのよ。貴方、先日の茶会で彼の取り巻きに散々言われたのですって?」
「どうでしたでしょうか……。あまり覚えていなくて」
「とぼけないでちょうだい! リノ伯爵夫人から聞いたのよ! 私には到底吊りあわない夫だって……」
「ああ、そう言われてみれば」
アルノは、言われてようやく思い出したという風に両手を打ち鳴らす。
だが間髪入れず執務机には、レウティシアの白い掌が叩きつけられた。
「言われてみればではないでしょう! どうして言い返さないの? 彼らは貴方を不当に貶めているのよ」
「と言われましても」
困ったような苦笑を浮かべるアルノは、本当に何とも思っていないらしい。
レウティシアは怒りのやり場を見失って白い歯を噛み締める。途端に沸き起こってくるやるせなさに熱い息を飲み込んだ。

アルノのもとへ降嫁した彼女に、表だって批判や揶揄を投げかける人間はほとんどいない。
だがそれは、彼らの結婚を皆が納得しているというわけでは決してないのだ。
噂話が好きな貴族たちは、御しやすく見える夫に挨拶代わりのようにそれらの皮肉を集中させる。
その度にレウティシアは歯軋りしたくなるような憤りを覚えているのだが、彼自身はまったく気にもしていないようだった。
今も平然と中傷を流し、更にまたからかいの場へ向かおうとしている夫を前に、彼女は何を言えばいいのか分からず押し黙る。
美しい妻のそのような表情を見て、彼は慌てて立ち上がった。
「泣かないで下さい、レティ」
「泣いていないわ」
「泣きそうですよ。ほら、座って」
隣り合って長椅子に腰掛けた二人は、少しの間無言でお互い寄り添った。
触れる体の温かさにレウティシアは悔しさを抑える。彼女は彼の手を取り、そっと握った。
すぐ傍から穏やかな夫の声が聞こえる。
「彼らに何を言われても、本当に何とも思わないのですよ。
 彼らが僕にかけるような言葉はつまり、彼ら自身が現状に不満を持っているということの裏返しでしょう。
 僕は充分満たされていますし、彼らを憐れみこそすれ批判する必要は感じません。
 そのようなことをする労力さえ虚しい―――― 貴女を称える言葉を聞くことは、気持ちのよいものですが」
悪戯っぽく毒のある言葉は、貴族たちの多くが知らぬアルノの本質を示すものだ。
凡庸さの中に鋭さを、温厚さの中に冷徹を隠して彼は世を渡っている。
そしてレウティシアは、夫のそのような複雑さもまた好きだった。
彼女はついふっと微笑み……だがすぐにかぶりを振る。いつもこのように彼に誤魔化されてしまうことを思い出したのだ。
「貴方の言うことも分かるわ。でも、それとこれとは別よ」
「別でしょうか」
「貴方がよくても私が厭なの。我慢ならないわ」
―――― 一体何の権利があって、彼に根拠のない中傷をぶつけているのか。
彼の妻になりたいと願ったのは、他でもないレウティシア自身なのだ。
いつまで経ってもそれを認めようとしない者たちに、彼女はいつもちりちりとした苛立ちを覚えている。
その蒙昧を正してやりたいと思いつつも、だがアルノが巧みに立ち回っているせいか、レウティシアは彼らと直接顔を合わせる機会をまったく得られていなかった。いつも終わってしまってから人伝に話を聞き、憤慨するだけである。

アルノは妻の話を聞いて苦笑した。
「でもですよ、僕が自分で『愛されている』と喧伝するのもおこがましいでしょう」
「事実よ」
「それは嬉しいですが」
「なら私が言うわ」
当然のように言い放つレウティシアに、アルノは目を瞠る。
彼女はまた何か誤魔化される前にと、彼の手をしっかり握った。青い瞳が反論を許さぬ威をもって男を射抜く。
「どうしても招待を受けるというのならいいわ。受けなさい。その代わり私も行く。これは決定事項よ」
「……それは、ええ、はい」
「二度とふざけたことが言えないよう、きっちり彼らの目を覚まさせてあげる」

そして、二人でこの城に帰ってくる。
一生を共にする夫婦として。



絶対譲らないとの剣幕を見せる妻に、アルノは微苦笑する。
彼は天井を見上げ「まいったなあ」などと零していたが、最終的には彼女の意を汲んだ。恭しい仕草で手を差し伸べ、レウティシアを立たせる。
「でもレティ、怒っても魔法を使ってはいけませんよ。皆が皆、陛下のようにお強いわけではないのですから」
「……もしかして、だから今まで私を連れて行かなかったの?」
王家の魔法士、大陸屈指の魔力を持つレウティシアは唇を曲げた。無意識のうちに拗ねた目を夫に向ける。
―――― 確かに苛立ちのままに魔法を使うこともあるが、無力な人間相手に無体を働いたことはないつもりだ。
無言のうちにそのような反論を見せる彼女の手に、アルノは笑って口付ける。そして悪びれもせず嘯いた。
「いいえ、独り占めが楽しかったもので」
虚を突かれたレウティシアは、怒ることも出来ず赤面する。
そうして彼女は一瞬で全ての苛立ちを忘れてしまうと、愛する夫に向かい「馬鹿ね」と小さく微笑んだ。