薄れてゆく慨嘆

mudan tensai genkin desu -yuki

棘のような嫉妬心というものに苛まれた時代は、思い返せば少女期のほんの数年だけだったように思う。
魔族と人間という考え方の違いに悩んだ時代は、それよりも遥かに長くはあったが、人の一生から見れば三分の一にも満たない年月だった。



「トラヴィス」
呼ぶ声はよく通るものではあったが、決して大きいものではなかった。
にもかかわらず呼ばれた男はすぐに部屋の中に現れる。彼はオーレリアを見つけると、何か言うより先に彼女の髪に手を差し入れ頬に口付けた。彼女がくすぐったさに笑い出すとようやく男は問うてくる。
「どうした?」
「パイを焼いたのよ。一緒に食べない?」
「お前が自分で? 人にやらせろ、そんなの」
男はたちまち呆れ顔になったが、それも無理のないことだろう。
今の彼女は屋敷で暮らしていた少女ではない。この国の女王なのだ。
忙しい合間を縫っての空白時間に、手ずから料理をしていたオーレリアは、そのように言われてくすくすと笑った。既にお茶の用意をしているテーブルを指差す。
「作るのが楽しいのよ。要らないというのなら別にいいけれど」
「食うよ。俺の為に作ったんだろ」
言いながらさっさと席につくトラヴィスに、彼女は穏やかな目を向けた。
心地よい午後の時間。二十八歳になったオーレリアは、無言の時に幸福を覚える。



オーレリアは、自分よりもずっと永い時を生きてきた男に「違い」を感じたことは多々あるが、「大人」と思ったことはあまりない。
つまりそれくらいトラヴィスは感心出来ない性格の持ち主であり、かつての彼女は彼の言動一つ一つに憤っていたものだった。
だが最近はそのような彼のことも、我侭な子供に似たものだと思えるようになっている。
所作だけは優雅に菓子を食べる男を、女王は微笑して見つめた。
お茶のカップを手に取ったトラヴィスは、彼女の視線に気付いて視線を上げる。
「何だ?」
「何でもないわ」
矜持の高い男に「子供のように見える」などと言えば、不機嫌になってしまうことは間違いない。
オーレリアは平然と恋人の視線を受け流すと、香りのよいお茶に口をつけた。
鼻孔をくすぐる温かい香は、多忙の中にあって彼女の心を安らげてくれる。
平穏そのものである日常。それはかつて自分の異能を自覚した時には、酷く手の届かないものに見えていた。
彼女は過去を見る目を、変わらない男の顔に向ける。
トラヴィスはその視線にまたもや怪訝な表情になったが、今度は何も言わずに立ち上がった。軽く驚くオーレリアの隣に、椅子を移動させると座りなおす。そうして何もなかったように再び菓子に手をつけ始めた。
「ど、どうしたの?」
「正面に座ってると、お前が子供を見るような目で見てくるからな」
「…………」
言わないでいようと思ったのに見抜かれていたらしい。
彼女は一瞬だけ言葉に詰まると、「そんなことはない」とでも言うように「そう?」と首を傾げた。
真意を隠す優美な振る舞いに、トラヴィスは白い眼を向ける。
「まったく。食えない女になったな」
「ごめんなさい」
「それも面白いけど。俺に嘘をついてもすぐ分かるぞ」
「ええ。―――― ありがとう」
感情を隠すことが下手だった子供時代から女王となった今まで、トラヴィスは彼女のどのような憂いをも見抜いてきたのだ。
人ではない彼には、彼女が何故憂いているのかは理解出来ない。だが揺らいでいることはすぐに分かる。
その度に彼は彼女を怒り、慰め、傍に置いた。
そうして彼なりに彼女を守り育ててくれたのだ。
人ならざる男がくれた不器用な温かさに、彼女が返せたものは一体何であったのだろう。
思えばそれはただ「認める」というだけの傲慢さであった気もする。
オーレリアはすぐ隣にいる男を見上げた。
「トラヴィス」
「何だ?」
「私、子供の頃、あなたがとても好きだった」
「…………で?」
男の声が一段低くなる。不機嫌の二歩手前くらいの声音に、だがオーレリアは微苦笑すると先を続けた。
「好きだったけど腹立たしかったわ。よくないことばっかりして、いつももっとちゃんとして欲しいと思ってた」
「確かにしょっちゅう文句言われてたな」
「でもそれは、あなたが悪いのよ」
「…………で?」
不機嫌に一歩近づいた気がする。
トラヴィスはオーレリアの顎を掴み、その瞳を至近から見つめた。
多くの女性たちを虜にしてきた眼差し。或いは多くの敵対者を威圧してきた目。
しかし彼女はその視線に怯むことも蕩けることもなく、男をただ真っ直ぐに見返す。
「けれどその『悪い』って……ただ人の倫理の上でのことなのよね。人が人と共に生きる為の善悪。
 それだけのものなのに、私はそれを分かっていなかった。あなたを変えたがったわ。
 そういう『善意』っておそらく、人の傲慢なのだと思う」
人が人の価値観において魔族の性を悪とし、それを変えたいと願う。
子供だったオーレリアはずっとその努力を「いいこと」だと思っていたのだ。
だが長じるにつれ、彼女はその考え方がおかしいことに気付いた。
「人に迷惑をかけないよう装ってくれ」と頼むことは出来る。
しかし「人を人のように愛してくれ」と願うことは、すなわち彼を否定することでもあるのだ。
オーレリアは彼の変化に気づいた時、己の傲慢さを知った。



少しの悔恨を込めて彼に向けられる目。
トラヴィスはその感情に気付いて、呆れ顔になった。
「何だ、そんなことか」
「そんなことって」
「俺は、煩いお前も好きだったよ」
顎を掴んでいた手が離れ、細い首筋をなぞる。
男の指はそのまま彼女の鎖骨を滑り、白い胸元へと進んだ。
ドレスの前を編み上げる紐が、その指を迎え入れるように自然と解けていくのを見て、オーレリアはぎょっとする。
「トラヴィス……!」
「お前は変わったけど、変わらなかったよな」
男の人差し指が、女の白い肌の―――― 心臓の上で止まる。
脆弱な命を伝える鼓動。まるで彼女の精神がその奥にあるかのように、トラヴィスはオーレリアの胸を指差した。
「煩かったけど、今は煩くねーけど、変わらなかった。
 俺を俺として見て……受け止めようとしてる。損なことにな」
苦渋の浮かぶ声。
その苦味は、彼女が長じるにつれトラヴィスに現れた変化の一つだった。
以前は自身の在り方を疑いもしていなかった彼が、稀に見せるようになった後悔。
そこに喜びと悲しみを同時に覚える「人間」は度し難いと、オーレリアは思う。
短い生を変わりながら生きていく人と、永遠を不変のまま過ごす魔族の王。
彼女がいなくなった後彼は、変わってしまった自分を抱え、どうやって時を送ることになるのだろう。

永遠を共にしたいと、言えたならよかった。
だが彼女はそれを望まない。彼に嘘は通じない。

「ごめんなさい」
「何で謝る」
「変わらなくて、ごめんなさい」
「それがいいんだよ」
悲しげに微笑む女の頭を、男の手は昔と変わらず乱暴に撫でる。
そうして彼は、オーレリアを子供にするように愛し、女にするように抱くのだ。
そこに違いはない。変わりもない。彼女は目を閉じて口付けを受ける。






トラヴィスは自分の腕の中で目を閉じている女を見下ろした。
空になった皿とはだけさせた胸元を眺める。
「で、何処まで食べていいんだ? 休憩時間はあとどれくらいある?」
「駄目! 絶対駄目!」
「譲れよ」
「絶対嫌! いい加減最低限の良識くらい弁えて頂戴! 大体あなたは……」
少女時代と変わらぬ目で説教してくる女に、トラヴィスは心底可笑しそうに笑い出す。
オーレリアはそれを見てきょとんとすると、だがすぐに目を据わらせて男の頬をつねったのだった。