凍れる体

mudan tensai genkin desu -yuki

耳が痛い。それはもう寒いというのではなく、ただ痛い。
雫はもこもこの手袋で自分の両耳を押さえた。冷え切って頭痛までを引き起こしそうな耳を、せめて風から守ろうと温める。
そうしているとまるで「何も聞きたくない」と駄々をこねる子供のようにも見えるのだが、背に腹は変えられない。
彼女は半分死んだ魚のような目で、一面の雪景色を眺めた。隣にいるエリクが口を開く。
「今回はちゃんと厚着で来たね」
「来ましたけど、耳は盲点でした。痛いです。とっても痛いです」
「手袋を耳にかぶせておけばいいんじゃないかな。今の姿勢だと話を拒否しているようにも見える」
「手袋を耳にかけた人間が来たら、私なら正気を疑います」
壁のない部屋は、以前とほとんど変わりがない。
エリクと雫はメディアル城の控えの間にて、案内を待つまでの間立ち尽くす。

幼児期の言語学習について研究している雫が、メディアルからの招待を受けたのは前回の苦い記憶より数年が経過した後のことだ。
以前の件については既に王から正式な謝罪を受けているが、今回はそれとは別に純粋に研究絡みの招待である。
大国や周辺小国などの学者たちが集まって開かれるという研究会に、ファルサス代表としてやって来た雫は、発表原稿を胸にまたもやがくがくと震えていた。
「心配だから」とついてきたエリクは、凍えている妻を冷静な目で見やる。
「まだ五分も経ってないよ」
「その五分がきつい! あと五分あったらどうしよう!」
「体を動かすと少しはましかもしれない」
彼の助言は他人事に聞こえなくもなかったが、雫にとっては一考の余地があるように見えた。
彼女は「なるほど」と呟くと屈伸運動を始める。
「よし、雪合戦とかしましょうか」
「何それ」
「雪球を作って投げ合うんですよ。こういう風に」
雫は身を屈めると、手袋を嵌めた手で固い雪球を作った。それを城とは逆方向、街へと続く坂に向かって投げる。
よく晴れた空に放物線を描いて飛ぶ雪球。
思ったより勢いのあるそれは、雪の積もる地面に落下しても動きを止めなかった。坂の上をころころと転がっていく。
「…………あれ?」
雫の手の中に収まるほどだった雪球は、二人の視線の集中する先で、見る間にその大きさを増していった。真っ直ぐに坂を下り、彼らの視界から消える。
時間までもが凍りついたようなひととき。
彼女が恐る恐る首を動かして夫を見ると、エリクはじっと彼女を見つめていた。

生まれた世界は違えども、共に旅をしそれなりに一緒の時を過ごしてきた二人。
現在は夫婦である彼らは、僅かな間に無言での意思の疎通を行う。雫はそっと坂下を確認する為歩き出した。
―――― 微かに下方から人の悲鳴が聞こえた、気がする。
しかしそれは、今の雪球とは無関係のものだろう。そう思いたい。
彼女は坂の始まる地点まで、雪に埋もれながら進むと、転がっていった雪球の軌跡を目で追った。
それきり雪像のように凍り付いてしまった妻を見て、エリクは言う。
「救助の人手とか必要そうな感じなのかな」
「…………いえ、人的被害は出ていないようです」
「じゃあ僕も一緒に謝るよ」
「す、すみません……」
坂を下る間に大きくなってしまった雪球は、下の小さな建物にぶつかり止まっていた。途中何かをなぎ倒したのか、色とりどりの布や棒が雪上に散らばっている。彼女は思ってもみなかった事態に頭を抱えた。
「悪気はなかったんだああああ!」
「うん。でも謝ろうね」
「他にこんなことした招待客っているんですかね!?」
「いないと思うよ。大丈夫」
それが慰めにまったく聞こえないのは、エリクに慰める気がないからだろう。
城の扉が開いてようやく案内の人間が現れると、彼らは二人揃って頭を下げた。目を丸くするメディアルの文官に向かってエリクは事情を説明する。





いきなりの失敗に激しく落ち込んだ雫はしかし、発表内容についてエリクにいくつか質問され、それらに答えるうちに気を取り直していった。
おかげで発表自体は問題もなく終わり、彼女は傷口が広がらずに済んだと安堵する。
雪球の一件はメディアルの国王から直接言及されたが、大した被害もなく笑い話で終わった。
そしてファルサスから来た二人は約束通り、空き時間に城の中庭で雪合戦をすると、久しぶりに訪れた北国を後にしたのである。