聖句

mudan tensai genkin desu -yuki

騎士になって身につけさせられたものは一つではない。
礼などの立ち振る舞いから言葉遣いまで、宮廷仕えをするにあたって、アージェに要求されたものは多数あった。
その中には聖句の暗誦というものもあったのだ。
ケレスメンティアに属する者なら誰でも身につけているという祈りの言葉。 しかしアージェにとってそれは空々しいもので、何の意味もないままごとにしか過ぎない。
それでも大人しく聖句を覚えたのは、ひとえに主人である女の為であろう。
城の中庭で彼女と共に昼食を取ったアージェは、ようやく一通りの暗記が済んだことを彼女に報告する。
「すぐ忘れそうですけど」
「そ、そう」
最低限だけを覚えた不真面目な騎士と違って、女皇であるレアリアは全ての聖句を暗記しているらしい。
彼女はお茶のカップを両手で持ちながら、欠伸をするアージェを見上げた。
「でも、忘れてしまったら必要な時に困るわ」
「そうしたら貴女に聞きますよ。どうせ俺は近くにいるでしょうし」
「……必要な時って大体、私の代理なのだけれど」
「…………」
「だ、大丈夫?」
「さて、それはいいとして」
強引に会話を打ち切ったアージェに、しかしレアリアはますます不安そうな顔になった。
どうにもこの主人は、アージェ本人より彼のことを心配している節がある。
聖句を多少間違えたとしても誤魔化せばいいと、彼は思うのだが、彼女にとっては一大事らしい。
レアリアはしばらく考えこむ様子を見ていたが、何かを決心したのか、どんと薄い胸を叩いた。
「じゃあ今から、間違いがないか私が聞いてみるから」
「え。別にいいですよ」
「よくないの!」
「いや本当にいい……」
折角の休憩時間であるのだし、試験のようなことはしたくない。
しかし正直にそう言っても、レアリアは譲ってくれなそうだ。
アージェは考えて考えて―――― 方向を少しだけずらしてみることにした。
「他の聖句がちょっと気になっているんですが」
「他の? 暗記したいの?」
「聞いてみたいだけ。陛下は覚えてるんですよね」
「それは勿論。でも本当に興味があるの?」
普段の不真面目な態度は筒抜けである為、彼女は訝しげな表情で覗き込んでくる。
しかしアージェは白々と「聞いてみたいです」と言い切った。
中庭に微妙な沈黙が流れる。

まるで根競べのような静寂を打ち破ったのはレアリアの方だ。
彼女は空っぽになったカップを置くと、自分の膝を見下ろす。
「分かったわ。じゃあ今から暗誦するから」
「お願いします」
「……本当に興味があるの?」
「本当本当」
「…………ならいいのだけど」
小さく溜息をついたレアリアは、古い聖句を暗誦し始める。
高すぎず低すぎない細い声。心地よい響きは子守唄によく似ていた。
その意味を無視して音だけを楽しんでいたアージェは、しかしゆっくりと眠気が増していくことに気づく。
よい陽気で昼寝日和ではあるのだが、今ここで眠ったらさすがに彼女の機嫌を損ねる。彼は咄嗟に舌を軽く噛んで眠気を退けた。
そうしている間にも、暗誦は続く。
「―――― アージェ、大丈夫? 揺れてるように見えるけど」
「大丈夫です」
これならいっそ正直に、聖句は嫌いだと言った方がよかったのかもしれない。
そう思いながらもアージェは朦朧とする意識の中で、「今、レアの膝枕で寝られたら、暗記しなきゃいけない聖句が二倍に増えてもいい」などと意味分からないことを考えていたのだった。
最後にレアリアから「寝てたでしょ!」と突っ込まれた。