香り

mudan tensai genkin desu -yuki

まるで魔法のようだと思った。
小さな硝子の器に入れられた薄黄色の軟膏。それを指先に少し掬って塗るだけで、乾いて引き攣れた皮膚がみるみるうちに赤子のような滑らかな肌に変わっていくのだ。
ひどく甘い香りを纏った膏薬は、ほんの少しで驚く程伸びて、体の中に染み渡っていく。
そうして肌の曇りを清め、数日繰り返すうちに皮膚の内から滑らかな白さをもたらしたのだ。
シーラは自分が体験したその変化に素直な感動を抱いた。本当にただ純粋に喜んだ。
常に後ろをついてくる影のように、若い彼女の中に根付いていた外見への引け目は、この魔法によって綺麗に拭われると思ったのだ。
このような幸運は誰にでも得られるものではないだろう。
金を積んでも手に入るわけではない。膏薬をくれた女はそう言っていた。
だから―――― やはり自分は「特別」だったのだと、シーラは思った。
彼女の細い指はその時、雲間を抜ける光と同じ白さを持っていた。



細い文字を紡ぐペン先は皺だらけの粗悪な紙の上で、それでも繊細な情景を表現しようと丁寧に動いていた。
今朝から頭の中に浮かんできた庭園の風景。 自分の頭の中にしか存在しないそれを、どう綴ればありのままに映し出せるのか、シーラは次の単語が思いつかず唇を噛む。意識の上に今まで読んだ詩の数々が浮かび上がった。
「ちがう……違う!」
押し殺した声は、ペン先にかかる力となって現れる。
歪んだ字の途中で紙に小さな穴があいた。少女は忌々しい気分でペンを机に投げ出す。
「もう!」
折角の情景も、形にならないまま消えてしまった。
何処にぶつけることも出来ない焦燥に、彼女は乱暴に立ち上がると窓辺に歩み寄る。
小さな古ぼけた窓。そこから見える景色は、平凡でありきたりのものだ。
汚れた隣家の壁、使い古された荷車に伸び放題の雑草。心躍るものなど何一つない。
だからシーラは、外を見る為にそこに立ったのではなかった。明るい日の光に己の指をかざしてみる。
以前は田舎娘らしく日に焼けており、彼女に溜息しかもたらさなかった指だが、今は違う。
透き通るような指先の白さは、唯一シーラの目の前に実在する美しさであり、彼女の心を支え、新たな発想を呼び込む力を持っていた。
目の上にかざした指をしばらく見ていた彼女は、気を新たに再び机へと向かう。
しかし、がたがたと安定しない椅子を引きかけた時、部屋の外から彼女を呼ぶ声がした。
「シーラ! 手伝っておくれ!」
「今、忙しいのよ!」
母親の声は、一瞬で彼女の集中を消し去った。
戻ってきかけた表象は散り散りになり、色褪せた生活が押し寄せてくる。
貴重な時間を台無しにされた―――― 沸き起こる怒りにシーラは書きかけの紙を手に取ると、それをくしゃくしゃに丸めた。
だがそれで苛立ちが解消されるはずもない。彼女は古びた詩集を一冊手に取ると、母親の話も聞かず小さな家を飛び出す。


路地裏の小さな家に一歩足を踏み入れれば、重く甘い香りがシーラの肺を満たしてくれる。
初めの頃は息苦しくて仕方なかったこの香りも、今では生簀に溜まる水のように彼女を自由にしてくれていた。
シーラは家の主人を探して、奥の扉を叩く。すぐに扉の向こうからは女の声が返ってきた。
「誰?」
「私よ」
それだけで済むのもシーラに許された特権だ。
彼女は出来るだけ背筋を伸ばすと、重い扉を押した。途端、未精製の香料のきつい匂いが溢れ出す。
家の主人である女は作業中であるらしい。湯気の立つ錫鍋に向かいながら、顔だけでシーラを振り返った。
「もう薬がなくなったのかしら」
「違うの。ただ家にいると落ち着かなくて……。ここにいてもいい?」
「ええ」
主人の了解を得て、シーラは壁際に置かれた揺り椅子へと腰掛ける。
古い詩集に没頭する時間、彼女の精神はいつも煩わしい現実から離れて、何処か別の世界を旅しているようだった。

シーラがこの家に出入りするようになったのは、二週間前のことだ。
少し前にふらっと村にやって来てこの家に住み始めた女。彼女が、村外れの広場で詩集を読んでいるシーラに声をかけたことがそもそもの切っ掛けだった。
シーラが愛読している詩集は、昔亡くなった伯母の持ち物であるのだが、名のある詩人が書いたものにもかかわらず村ではこれについて話を出来る人間がいない。
村人たちは同世代の少女たちも含めて目の前のことしか見ておらず、シーラはずっとそのことに憤りと孤独を感じていた。
―――― そこに現れたのが、この女だったのだ。

「いつかこの村を出たいの」
詩集から顔を上げ、シーラがそう言うと、鍋に向かったままの女はくすりと笑った。
「どうして?」
「ここで一生を終えたくないから。もっと大きな街に出て、色んなものを見てみたいの。
 勉強だってしてみたいし、美しい絵も見たい。そうすれば私、きっともっと変われると思う」
「本当に?」
予想とは違う返答にシーラは僅かな棘を感じた。この女は、シーラが初めて出会った「教養ある人間」だ。
そして単なる村娘に過ぎなかった自分の才能を認め、理解してくれている。
そんな彼女であるのだから、ちゃんと訴えれば異を唱えてくるはずがない。シーラは少しだけむきになった。
「私、もっとあなたみたいな人と会いたいの。だって自分より上の人間と一緒にいないと、得られるものもないでしょう?」
この村にいて母親や少女たちと話していても、ただただ疲れが増していくだけだ。
自分にはもっとふさわしい場所がある―――― それが何処かは分からないが、シーラはただ「ここではない」とだけ思っていた。
「あなたはそう思わない? この村で満足しているの?」
どうして彼女のような人間が、こんなちっぽけな村に居を構えているのか。
シーラは常々不思議に思っていたが、何度聞いてもはっきりとした回答が返ってくることはない。
この時も女からは、振り返らぬまま笑う気配だけが伝わってきた。
「……そうね。私も色んな所を渡り歩いてきたから、あなたの気持ちも分からないではないわ」
「やっぱり? 今までどんなところにいたの?」
「最初は地位とお金のある人たちのところにいたわ」
「へぇ……」
好奇心が頭をもたげる。いわゆる上流と呼ばれる人たちがどのような暮らしを送っているのか、シーラは想像しようとしたが具体的には何も思い浮かばなかった。
その間にも女は続ける。
「次は普通の人たちの中に。外見が美しい娘を探したの」
「娘を探した?」
「ええ。でも彼女たちはどうしても自分が人より優れていると思い、驕ってしまう。
 自分だけが特別と思い込むのよ。……それはとても醜かったわ」
―――― 何の話をしているのだろう。
シーラは訝しく思ったが、背を向けている女は割り込むことを許さぬ空気を発していた。
錫の鍋からはねっとりとした甘い香りが漂ってくる。
「だから次は、内面の清らかな娘にしたわ。働くことを苦にしない娘や、家族思いの娘、勤勉な娘を選んだ」
「選んだって何を?」
「膏薬を与える子を選んだの」
「ああ」
生まれかけた疑問を、優越感を含んだ納得が掻き消す。
女にもらった軟膏は、ほんの少しで少女の肌を清新なものとするのだ。シーラはその効果をよく分かっていた。
少女は透き通るような自分の指先に目を落とす。
「……あの」
「何かしら」
「その人たちは今はどうしてるの?」
自分以外にも軟膏をもらっていたという人間たちは、今は何をしているのか。
シーラはそこに己の未来を重ねて不安と期待を抱いた。
一瞬の沈黙の後に、女は振り返って微笑む。
「残った娘は少しだけ。後は私と一緒に住んでいたところを出たわ」
「あなたと一緒に?」
思わず腰を浮かせたシーラに女は笑顔を見せた。
「ええ」
「わ、私は!?」
―――― もしかしたら、自分もそうしてこの村を出られるのだろうか。
シーラの指は、古ぼけた詩集をきつく握り締める。乾いた喉が甘い香りを嚥下した。
女は軽く首を傾げる。
「あなたには家族がいるでしょう?」
「構わない!」
「そう? あんなに家の為に頑張って手伝いをしていたのに?」
「好きでしてたわけじゃないわ。私、もっと自分の為に生きたいの!」
ずっと子供の頃から「自分は特別なのだ」という空想を抱いて、それを生きる支えにしていたのだ。
だがそれは空想ではなく事実だった。本当に自分は特別だったのだ。
家族のことは嫌いではないが、平凡な彼らはシーラを理解してくれない。
だから別れることになっても仕方がないだろう。少女は熱を込めて女を見つめる。
女はそれを聞いてふっと笑った。
「ならじゃあ……この村を出る時にあなたを連れて行くわ。それでいい?」
「あ、ありがとう! でも、いつ頃?」
「その時になったら言うから。―――― 私にはまだこの子たちがいるし」
女は近くに置いた瓶を撫でる。
とろりとした薄黄色い液体が入っているその瓶は、シーラの目に不思議と艶かしく映った。女の指が愛しげに瓶の縁をなぞる。



いつかこの村を出る日が来たら。
そこには何が待っていて、何を得られるのか。
女の家を出たシーラは、胸を膨らませて自分の手を落ちかけた日にかざす。
白く細い指は赤みがかった光を受けて、そこからは素晴らしい詩が生まれるのではないかという幻想を、彼女に抱かせた。