mudan tensai genkin desu -yuki

研究室の中には淹れたてのお茶のよい香りがたちこめている。
太陽の熱気が窓を伝って入り込んでくる昼過ぎ、机を一つ占有して弁当を広げていた雫は、食事を終えると向かいに座る夫の手から書類を受け取った。
見るとそれは、城に入れて欲しい資料本や論文の申請リストである。既に十数人の手を回ってきたらしく、そこには三十冊ほどの題名が並んでいた。
「あー、もう前の申請から三ヶ月ですか」
「そう。君もあったら書いとくといいよ」
比較的手のかからない彼らの子供たちは、既に二人ともが「本を与えておけば大人しい」年頃になってきている。
その為母親である彼女も研究に時間を割いていられるのだが、欲しい資料と言われても雫には咄嗟に思い浮かぶものがなかった。料理本が読みたいと脱線しかける思考を無理矢理引き戻す。
「にしても色々ありますね。題名見てるだけで面白いです」
「分野で区切られてないからじゃないかな」
「確かに」
何しろ宮仕えの研究者の専門は多岐に及ぶ。彼らがそれぞれ希望を出しているのだから、何がなんだか分からないものも多い。
雫は「ビルチャールにおける水生リブルの社会形態について」という題名を見て、一体どのような内容なのか真剣に悩んだ。悩んでも分からないので、そのすぐ下のタイトルに目を移す。
「……ケレスメンティア滅亡による周辺国家への影響について、って暗黒時代の本ですか?」
「違うよ。滅亡からまだ十年も経ってない。だからその論文自体時期尚早だと思う。ハーヴが頼んでるんだと思うけど」
「え? 最近滅んだ国なんてありましたっけ」
「東の大陸には」
「あー」
今いる大陸から海を隔てた東には、似通った文化を持つ大陸がもう一つあるのだ。
かの大陸について、雫はほとんどの人間が知らない秘密を知っているが、それ以外のことはまったく知らないと言っていい。弁当箱を片付けながら過去の記憶を攫い出す。
「確か大陸によって主神が違うんですよね」
「そう。で、ケレスメンティアっていうのはその主神信仰を基盤に置いた宗教国家だったわけ」
「へー。なんかファルサスにいると信仰と縁遠いからよく感じが分かりませんね」
「うん。でもその国にはざっと二千年弱の歴史があったから、滅んだのは大事件と言っていいと思うよ」
「うわ」
二千年と言ったら、雫の感覚でも相当な長さだ。
島国の単一国家としてかなりの歴史を持つ国に生まれた彼女は、時間の持つ重さというものにしばし思いを馳せた。
けれど不意に我に返ると質問を重ねる。
「で、何で滅んだんですか?」
「ん。最高権力者が狂った」
「げ……そんなんで滅んじゃうんですか? 二千年も続いたのに?」
「ファルサスにだって廃王がいただろう。他国から攻められてる最中に王が狂ったら、立て直しは難しいと思う。
 特に宗教国家は人の信仰に多くを頼っていたりするからね。上がおかしくなったら急場には脆いよ」
「なるほど」
そう考えてみれば、やはり一人の人間が国を統べているという状況は危ういものなのかもしれない。
自分もそのような国に籍を置いている雫は、現王の性格と能力を思い出し複雑な気分を味わった。
「何か……私も後学の為に読んでおきたくなりますね……」
「空いたら借りればいいんじゃないかな」
既に自分の研究書を開きだしているエリクは、顔を上げぬまま相槌を打つ。
だが彼は妻の杞憂を読み取ったのか、ページを捲る手を止めると「今のファルサス王はそんなやわじゃないと思うけどね」と付け足したのだった。
―――― 雫は「少しくらいやわでもいいから、もっとまともな性格でいて欲しい」と思った。