mudan tensai genkin desu -yuki

目の前の桶で猫が洗われている。
それはどう言葉を挟めばいいのか分からぬ光景で、雫はただ立ち尽くして見守ることしか出来なかった。
水をかけられ悲痛な悲鳴を上げる黒猫を、彼女は同情の目で眺める。
しかし洗っている当の男は涙混じりの懇願に一切聴く耳を持たないらしい。一通り泡立てると更に水をかけていく。
「やあだああああ! やめてええええ!」
「べたべたになっておいて何を言う! そもそもお前は何しに来てると思ってるんだ!」
「やああああ!!」
どう見てもただの黒猫なのだが、上がる悲鳴は若い女のものだ。
それが誰なのか、何故洗われているのか知っている雫は、 結局口を挟めぬまま猫が洗われ終わるのを待った。



雫が生きていくことになったこの世界において、二人だけ存在する「逸脱者」という異能者たち。
彼らは雫に大きな責任を負っているということもあり、一月に一度はやって来て彼女の様子を見ることを常としていた。
それは大抵逸脱者の一人であるティナーシャが猫の姿形を取ってやって来るのだが、間がいいのか悪いのか、この日雫はファルサスの城でたまたまチョコレートの試作品を作っていた。
そしてチョコレートの匂いに惹かれてきた黒猫は、溶けたチョコの鍋に手をかけ―――― 誤ってひっくり返してしまったのである。
ティナーシャの不幸は今日に限って彼女が一人ではなかったことだろう。
何やら自分の用を済ませていたらしい彼女の夫は、厨房にやって来てチョコだらけの猫を見るなり中庭で彼女を洗い始めた。
ようやく桶の中から解放されたティナーシャは、べそべそと啜り泣きながらずぶ濡れの自分を乾かし始める。
その様子があまりにも憐れで、雫は乾いた布を手に彼女へと歩み寄った。
「あの、なんかすみません……」
「謝らなくていいんだ。むしろこちらが悪かった。迷惑をかけてすまない」
「い、いえ」
迷惑とは思わないが、呆気に取られてしまったのは確かだ。
中庭の草の上に座ったオスカーは、苦笑して雫を見上げた。
「何か不自由はしていないか? 里帰りがしたくなったらいつでも言うといい」
「あ……大丈夫です。ありがとうございます」
「本当はこういうことを聞きに行かせてるんで、菓子を摘み食いさせる為に行かせてるんじゃないんだ」
苦い顔の男は、ティナーシャが毎月のようにチョコレートを土産物として貰っていることを言っているらしい。
雫は慌てて首を横に振った。
「違うんです! あの、助かってますから! お礼みたいなもので」
「礼をする必要もないんだ。元々俺の不手際だからな。すまない」
―――― それは雫がこの世界へと引き込まれた切っ掛けのことだ。
彼女の思考は瞬間過去へと飛び、砂漠の風景を懐かしく思い出した。
晴れた空に翼を広げるドラゴン。夢かと思ったあの光景を忘れることは一生ないだろう。
あの時からあまりにも多くのものが変わった。
雫は自分の数年間に、単純ならざる感慨を抱く。



「私、今幸せです」
何を言おうかと考えて、結局口にしたのはそのような言葉だ。
そしてこれが全てだろう。オスカーは雫を見上げたままほろ苦く微笑む。
「そうか」
「はい。だからお礼もさせてください」
黒猫の方を見ると、魔法を使って乾かしていた毛はすっかりほわほわになっていた。
必死で毛づくろいをしている妻に、オスカーは「おいで」と手を差し出す。黒い毛玉は草の上を転がるように走ると彼の胸に飛び込んだ。
「は、反省しました……」
「よし。じゃあ帰るか」
丁寧に洗われた猫は、反論もせずに黒い手で男の服にしがみつく。
毛玉を抱いて立ち上がったオスカーは、桶を片付けると雫に手を振った。
「ではまた来月来る」
「ありがとうございます」
「また来ます……」
しょげた黒猫は言うなり詠唱もなしに転移門を開く。
そうして二人を見送った雫は耳に残る悲鳴に苦笑しつつ、来月のお土産を考えながら城の厨房に戻っていった。
後に残るのは甘い匂いの小さな水溜りだけである。