mudan tensai genkin desu -yuki

彼女の体の弱さが目立ってきたのは、子供たちが二人とも家を出て数年後のことだ。
気が抜けたのか、体力ががくっと落ちたのだろう。ちょっとした病が長引くことが増え、寝付くことも少なくなかった。
彼女はそう長い時間を生きられる体ではないのかもしれないと、アージェが気づいたのはそうした頃だ。
元々彼女は、短命の運命を持っていたのだ。その運命が取り除かれた今も、完全に普通の人間と同じになったわけではないのだろう。
強大な魔力は、きっと代償に得たものなのだ。
アージェはそのことを悟って、だが、妻への態度を変えることはしなかった。
ずっと昔から当然のように、そう在るように、共に生きるつもりだった。



「アージェ」
目が覚めた妻の第一声は、彼の名前だった。
枕元に座っていた男は顔を上げて答える。
「起きたか。何か飲む?」
「……平気。ありがとう」
レアリアは、言いながら体をよじって起き上がろうとする。しかしアージェはそれを制した。
「もうちょっと寝てろよ。家のことは大丈夫だから」
「そう?」
「うん。あー、でも、ちょっとお茶淹れてくる。すぐ戻る」
彼が立ち上がると、レアリアは微笑んで顔を掛布に埋めた。
その様子を確認して廊下に出たアージェに、外で待っていた娘が問う。
「お母さんの具合は?」
「平気だよ」
「でも」
「平気。ほら、もう城に行くんだろ」
普段離れた場所に住む娘は、用事があって王都に戻ってきたらしいのだが、母親の具合を聞きつけて家に立ち寄ってきたのだ。
アージェは不安がる娘の背を安心させようと叩く。
「何かあったら連絡する」
「……ならいいけど」
恨めしそうな目で父親を見る少女だが、予定は立て込んでいるらしい。足音をさせず廊下を駆けていった。
その気配が消えると、アージェは軽く息をつく。


子供たちは、走り去るように大人になる。
かつてはアージェもそうやって、親のもとから去っていったのだ。
そして今、自分が彼らの背を見送る段階になって、アージェはやはり、最後に残るのは自分たちだけだと思う。
子供たちがどれ程親を気遣おうとも、彼らはやはり共に手を取った二人として、二人で終わるのだ。


「レア」
寝室に戻ると彼女はまた眠っている。
アージェは枕元の椅子に座りなおすと、そっと妻の髪を撫でた。
柔らかい感触、光の色に懐かしい時を思う。それは彼の記憶では少しも色褪せていなかった。
血の気の薄い頬に指を添わせた時、レアリアは薄く目を開ける。
「アージェ……あのね」
「うん?」
「今のうちに言っておこうと思って」
天井を見上げる彼女の瞳は透徹だ。
むしろ彼女は、昔から先を見る時にはいつもそうであった。
それはつまり、常に死を見据えてきたということであるのだろう。アージェは穏かな声で問う。
「何を?」
「私とあなたのこと。―――― 私ね、ケレスメンティアを出てから、ずっとあなたに迷惑をかけてきたけど、
 でもとても幸せだったの。それを言っておきたいと思って」
彼を見るレアリアの微笑は、曇り一つないものだ。
そこには憂いの翳も悔いもない。不思議な程美しい表情に、アージェは言葉にならない衝撃を受ける。
彼女もまた、他の人間たちと同じく自由になる時が近づいているのだ。そう、分かっているはずのことを改めて知る。
「レア」
「今まで、素直に喜べなくてごめんなさい。でも本当のことよ。私を幸せにしてくれてありがとう。
 アージェ、あなたと生きられて嬉しかった」
はっきりと、澄んで聞こえる声。
昔の彼女を思わせる響きに、アージェは息を止める。そっと妻の小さな手を取った。
「俺もそう思ってるよ」
「うん」
レアリアは少女のように笑うと、再び目を閉じた。眠りに落ちたのだろう。安らかな寝息が聞こえ始める。
アージェは立ち上がると、寝台に埋もれる妻の頭をそっと抱いた。
残された時間を数えることはしない。ただ共に、同じように歩いていく。
「―――― ずっと傍にいる」



眠る彼女の手を取る。
その手が失われる日まで必ず。
そうして隣を行く彼女が幸せだと笑うのなら、自分もまた幸福だ。

二人はそうして、長い旅路からようやく自由になった。