密やかに

mudan tensai genkin desu -yuki

王太子である彼の私室になど、随分久しぶりに足を踏み入れた気がする。
ジウは薄青い壁紙を懐かしく見回した。奥の飾り棚には、昔から見慣れた置物がいくつか置かれている。
青い水の中を作り物の魚が泳ぎまわる硝子飾りを見つけて、彼女は思わず微笑んだ。
それを部屋の主である青年に見つかったのだろう。呆れたような声がかかる。
「そんなところにいないで、こちらに来なさい」
「はい」
セファスは奥の椅子に長い足を組んで座っていた。
秀麗な顔立ちには気だるげな空気が漂っており、それを部屋の影が助長している。
肘掛に頬杖をついている彼は、翳がかった目ですぐ前に来たジウを見上げた。
「君がファルサスに来ることになるとはね。あれほど僕が何を言っても聞いてくれなかったというのに」
「個人の自由です。ファルサスでは認められていることでは?」
「そうだね。でも君については、僕が認めていたんだ。自由にしていいと」
横を向いてそう吐き捨てる彼は、不貞腐れているようにも見えた。
子供の頃からさほど変わらないそのような様子に、ジウは諦めと不思議な郷愁を覚える。
言うことも見つからない彼女は、少し考えて沈黙を保った。セファスの青い目が改めて彼女を見つめる。

ジウは、厳密にはファルサスの人間ではない。キスク女王に仕えるキスクの人間だ。
だから彼の言うことは、所詮理不尽な言いがかりだ。―――― だがそれは実際、真実でもある。
本当にセファスが彼女に言うことを聞かせようと思ったなら、もっと権力に訴えることも出来たのだ。
しかし彼は結局それをしなかった。そこには単純ならざる煩悶があったのだろう。
ジウは、堪えることが苦手な彼の、そのような辛抱を好ましく思う。

「怒ってらっしゃいますか?」
沈黙に耐えかねた訳ではない。ただ聞いておきたかった。
彼女の問いに、セファスは形のよい唇を歪める。
「怒ってなどいないよ。喜ばしいことだろうしね」
「怒ってらっしゃるように見えます」
「目が悪くなったんじゃないか?」
「視力は正常です」
いつも通りのやりとりも、セファスは何処となく精彩を欠いているようだ。
ジウはその場に膝をつこうとしたが、彼は煩わしげに手を払う。
「いいよ、そんなことしなくて」
「ですが」
「しなくていい。……もう行っていいよ」
青年の目は、ジウから離れて飾り戸棚を見つめる。
そこに並べられているものは、彼の思い出そのものなのかもしれない。
ジウはその中に、かつて自分が贈った花飾りを見つけて微苦笑した。
「お許しを、殿下」
踵を返した彼女に、セファスは何も言わない。
ただ彼女が扉に手をかけた時、苦味に満ちた声が一つだけ問うた。
「君はそれでいいのか?」
―――― 答など分かりきっている。
ジウは振り返って青年を真っ直ぐに見返すと
「何一つ不満はございません」
と言い切った。



三ヵ月後、ジウは人の妻となりファルサスに移り住んだ。
家族と別れ、慣れ親しんだ家を出ての新しい生活。そこに不満はない。嘘はついていない。
ただ一つだけ黙していることがあるだけだ。
密やかにしまわれた本当のことは、今も過去の思い出と共に、飾り戸棚にそっと置かれている。