微笑み

mudan tensai genkin desu -yuki

本当の変化は人の目に見えないものも多い。
長きに渡る楔からの支配。それを一人の女が先導して覆したのは、つい数ヶ月前のことだ。
彼女と敵対し、また協力しながらその一端を担った老皇帝は、執務室の壁際に立つ女を見やる。
いまや鳥籠にはいない魔女は、腕の中に向けていた穏かな視線を、彼に戻すなり冷ややかなものと変えた。
「それで? 面倒なことは全て私に押し付ければいいと思っていないか?」
「押し付けるつもりはない。やるかやらぬかはおぬしが決めることだ。
 もっとも―――― 既に別のものを押し付けられてはいるようだが」
彼の視線は、魔女の腕の中のものを示している。
今はすやすやと眠っている赤子を、布でくるんで抱いているティナーシャは、くすりと笑った。
「どうして押し付けられたなどと?」
「一月前に会うた時には、おぬしは孕んでなかったからな」
「なるほど。実は朝、家の前に置き去りにされていた」
家、と彼女が言うのは、彼女の恋人である男の宿舎だろう。
今の彼女はそこに転がり込んで男と共に暮らしている。老皇帝は赤子の出所に喉を鳴らして笑った。
「捨て子か? あの男の不始末か」
「置手紙にはそう書かれていたな。悪くない人選だ」
「怒らぬのか?」
「別に。重ねて否定はされたが、元よりそんな必要もない」
あっさりとそう言うティナーシャは、恋人の不貞をはなから疑ってもいないらしい。
もっとも、それが事実でも普通の女のように怒り狂いはしないのではないか―――― そう思わせる精神の危うさを彼女は持っている。
ティナーシャはしかし、老皇帝の視線を別のものととったのか、唇の端を上げて返した。
「私たちは子を為せない。厳密な人間ではないからな。疑いようもない」
「そうなのか」
「そうだ」
口元だけで笑う女は、胸元の赤子を抱きなおす。
言葉とは裏腹に、眠る子へと注がれる愛しげな視線は、紛れもない人間のものに見えた。
或いはそれは、彼女が恋人に向ける愛情よりもずっと、人らしいものであるのかもしれない。
老皇帝は我知らず嘆息を嚥下する。
「―――― おぬしは子を産んだことがあるのかと思った」
他意のない感想にティナーシャは肩を竦めると「昔のことだ」と笑った。
その微笑はまるで、取り戻せないものを慈しんでいるようだった。



「それで? そのまま育て続けるのか?」
「いや。彼が引き取り手と本当の親を探している」
「あの男がどんな風におぬしに弁明したか、見てみたかった。今ここに呼び出してみようか」
「人の男で遊ぶな。怒るぞ。既に私が結構怒られた」
「何を言ったのだ?」
「何も言わなかった。ひとしきり黙って言い分を聞いた後、子供が出来ないことを教えてみた」
「性の悪い……」