反逆

mudan tensai genkin desu -yuki

作業に没頭している時の彼は、まったく時計を気にしない。
このような時は外界からの声もほとんど聞こえなくなるイルジェに、話しかけて返事を貰うことが出来るのはほんの数人だ。
そのうちの一人であるシスイは、図書室に入るなりまだ作業をしている主君に向かって声をかけた。
「殿下、そろそろお仕度なさいませんと」
「…………ああ、もうそんな時間か」
数秒の間を置いて顔を上げた王太子は、名残惜しげに書いている草稿を見下ろす。
城都東部にある森の生態系について書きかけの論文は、完全に彼の趣味だ。誰も完成を待ち望んでいない。
しかし今はそれに夢中のイルジェは、溜息を一つついて立ち上がった。
「面倒だな。セファスの結婚式とか、俺が出なくてもいいんじゃないか?」
「さすがに理由もなく欠席は不味いかと思います」
「この隙にファルサスを攻めてみるか。いい理由になる」
「準備不足は否めませんが、欠席理由には充分ですね。意表を突かれるのは向こうも同じでしょうし」
「よし、今すぐ軍を編成しよう」
「何言ってるのよ、イルジェ!」
金切り声一歩手前の叫びは、開け放たれた扉の前に立っている少女のものだ。
薄紅色のドレスで正装した妹を、青年は眉を上げて見やった。
「何だ。まだこんなところにいたのか。遅れるぞ」
「まったく仕度してないイルジェに言われたくないわ」
「今から仕度するところだ」
「軍の編成しようとしてるんじゃないの! 何考えてるのよ!」
「隣国の足を掬ってやろうかと考えてる」
イルジェは平然と返したが、エウドラはますます顔を真っ赤にする。
兄に食って掛かろうとする少女を、シスイは「まあまあ」と羽交い絞めにした。
「殿下も七割程度しか本気じゃないですから」
「七割あれば充分よ!」
「実行しなければ何を考えようとも自由だ」
妹の罵言にもまったく動じない彼は五割の本気でそう言いはしたが、いい加減本当に仕度をしなければいけない時間である。
彼は論文を小脇に抱えると、シスイに手を振って図書室を出た。暗黙の了解で後をついてくる従者とは別に、エウドラも小走りで追いかけてくる。
「大体、イルジェもちょとはセファスを見習って落ち着きなさいよ!」
「俺は昔からセファスより落ち着いてるつもりだけどな」
「結婚は?」
エウドラがそのようなことを言うのは、止める者のほとんどいない次兄に、重石をつけたいと考えているからなのだろう。
妹の意図を充分に汲み取ったイルジェは、廊下を行きながら頷いた。
「正直俺もセファスの結婚で色々考えた」
「本当!?」
「ああ。―――― 父上のご命令とは言え、面倒なことだなと。俺にはそういう圧力がなくてよかった」
「…………」
がっくりと膝を折ったエウドラは、その言葉で兄についていく気力をなくしたらしい。
肩越しに遠くなる王女を振り返ったシスイは、声を出さずに笑った。
「姫はご自分が降嫁なさる方が早いんじゃないですかね」
「まったくだ。俺は母上みたいに後継だけ得られれば充分だ。その方が面倒がない」
呆れたような王太子の溜息は、兄の結婚に向けてのものなのだろう。
そのせいで更に面倒くさがりが強まってしまったかもしれない主君に、だがシスイは何の忠言も呈さなかった。

次代へと明確に移り変わるファルサスに対し、絶賛停滞中のキスク。
その次期王たるイルジェが同じ感想を口にして母親に怒られるのは、この四時間後のことである。