くちづけ

mudan tensai genkin desu -yuki

その女が彼に与えたものは己の全てだった。



料理の仕方などは彼にはまったく分からない。
だから彼女が食事の支度をしている間、基本彼に許されていることは待っていることだけだ。
最初の頃はそれが分からずに、色々と手を出して窘められた。
今ではすっかり学習した彼は、広い家の厨房に向かっている彼女を後ろから眺める。
女はその気配に気づいてか、振り返って「あとちょっと」と笑った。

断崖絶壁の上にあった廃墟でほんの小さな頃から一人生きていた男のもとに、ふらりと彼女が現れたのは一年近く前のことである。
女は彼に多くのことを教え、やがて二人は共に廃墟を出て森の中の家で暮らすようになった。
町の中に居を構えなかったのは、彼自身まだまだ多くの人と共にあることに慣れていない為だ。
人の常識は、知識として彼女に教えられてはいたが、身に染み付いているわけではない。
それによる失敗を幾度となく繰り広げてきた彼は、結局のところ静かな暮らしが一番いいのだという結論に落ち着いていた。

厨房で忙しく立ち働いていた女は、鍋に蓋をしてしまうと手を洗う。
「これで後しばらく置いておけば大丈夫です」
「終わった?」
「とりあえずは。退屈なんですか?」
―――― 退屈というものが、彼にはよく分からない。
それは「人」の覚えるものだと思う。彼は自分が、多くの点で「人」とは違うということを既に知っていた。
町中にいた頃は「獣」と揶揄されたこともある。それについては、その通りだとしか思わなかった。
人と獣のどちらが優れているのかなど、考える必要もないだろう。ただそこには違いがあるだけである。
しかしそれはそれとして、彼女に触れられるのは嬉しい。
彼が手を伸ばすと、女は微笑んで腕の中に収まった。安心出来る温度。その実感と共に、自分はずっと彼女を守るのだ、と思う。
そのような関係を人は多くの言葉に当て嵌めるらしい。
彼はまだ馴染みの薄いそれらのうちの一つを口にした。
「夫婦か、と言われた」
「町の人にですか? 確かにそうですね」
「恋人かとも」
「どちらでも変わりませんよ。私たちにとっては」
白い両腕が彼の首に絡み付く。
寄り添う体は柔らかく、彼は不思議な心地よさを味わった。もう一歩踏み込みたいと思う半分、このままがいいとも思う。
そうして我慢が出来るようになったのは、彼にとっては大きな進歩なのかもしれない。
彼は女を抱き上げて見上げた。
「変わらない? つがいということか?」
「うーん、言葉の意味はそれぞれ違いますけど、私たちはそのどれでもあるんですよ」
女は目を閉じて微笑む。
まだ彼が言葉を知らなかった頃よくそうされたように、体の触れている部分から意味だけが流れてきた。

夫婦であり、恋人であり、主と従であり、無二の一対である関係。
彼らはその全てで、そしてそれ以外だ。
遥か過去から未来に向けて続く何か。その意味を、彼はまだ知らない。
やがては知るだろう。その為に、彼らは在る。



「むずかしいな」
飲み込みきれなさを答として返すと、彼女は微笑む。
それ以上は何も語られない。
代わりに送られた口付けは、祝福のようで、そして変わらぬ誓約のようだった。