傷跡

mudan tensai genkin desu -yuki

「もういいんだよ」と、床に伏した友人は言った。
終わりを迎える為の小さな部屋には色がなかった。窓の外は白く、のっぺりとした景色が広がっていた。
それはまるで夢の中のようだった。
夢であればいいと願いながら、彼女は泣いた。



一歩建物の外に出れば、空からは強い日差しが一面に降りそそぎ、庭の緑を色鮮やかに輝かせていた。
生い茂る木々は自由を許されているようで、だが全体としてみれば計算された整然さを持って城の白い建物を引き立てている。
歴史の重みと上品さを思わせる景色。
リィアはけれど、その美しさよりも気温の高さにすっかり気を取られていた。だぼつく黒い袖を上げて日の光を遮ろうとする。
彼女を案内して一歩先を歩いている文官は、その仕草に気づいて笑った。
「やはりそちらの国と比べて暑いですか」
「……ええ」
「もうすぐそこが図書館ですから」
男が示す離れの建物は、外から見ても小さな窓が申し訳程度にあるだけである。
リィアは一瞬、中が熱気で蒸されている様を想像したが、男はそれを予想していたのか「気温は調整されています」と付け足した。
その言葉通り、広く薄暗い図書館に一歩足を踏み入れた彼女は、ひんやりとした空気に安堵する。
西の大陸では「魔法大国」と称されるこの国は、魔法絡みの蔵書だけでおおよそ十数万冊の揃えがあるらしい。
三階分はありそうな吹き抜けの空間に、天井まで本棚が続いているのを見てリィアは思わず溜息をついた。

生まれ育った大陸を離れ、西の大陸に渡ってきてからの三年間、彼女は特に何の目的もなくあちこちを彷徨っていた。
それはただ、知らぬ土地を見てみたかっただけなのかもしれない。
肌身に感じる空気は彼女の知るものとあまりに違って、リィアを少なからず惨めな気分にさせた。
この穏やかさを手に入れられなかった人間がどれだけいたのか、振り返って自嘲を覚えずにはいられなかった。

―――― 思えば、それは彼女が負わなければならぬ重みであったのだろう。
旅をするうちに己の感情と折り合いをつけたリィアは、今はある国で宮廷魔法士として働いている。
そうしてふとした巡り合わせで、この魔法大国を訪れることになったのだ。
雇い主である男が用事を済ます間、好きにしていていいと言われた彼女はけれど、膨大な本の壁を前にどうしていいのか分からない気分を味わっていた。
案内の文官が本棚の奥を指差す。
「私は魔法書のことはよく分かりませんから、彼にでも聞いてください」
「彼?」
見るとそこには、棚に向かって本を整理している男がいた。
魔法士の格好をしてはいるが、ほとんど魔力を持っていないところを見ると蔵書整理の担当なのかもしれない。
リィアは消せない癖で足音を立てずに男のところまで行くと、声をかけた。
「あの」
「何?」
振り返った男は、リィアよりも十歳以上は年上に見える。
整った顔立ちをしており、若い頃は綺麗といって差し支えない容姿だったのかもしれない。
ただ男からは余計な愛想などは感じられず、彼女はそのことにかえってほっとした。
あまり他国からの客ということでもてなされると、あちこち気を使って息苦しくなってしまう。
少しだけ肩の力を抜いた彼女は、本棚の森を指差す。
「図書館の見学を許可されて来たんですが……」
「ああ。何が見たいの?」
「魔法書の……出来れば魔法具研究の論文を」
「分かった」
男は手にしていた本を棚に戻すと、さっさと奥へ歩き出した。迷いのない足取りにリィアは慌ててその後を追う。
彼はそのまま見学者相手とあって、本棚区分の説明も始めた。
「ここから十三列までは歴史書だ。その次が政治書。反対側は文化研究になってる」
「はぁ……」
魔法以外のことに関してはリィアは基本勉強嫌いなのだが、やる気のない相槌にもかかわらず男は説明をやめなかった。
それが仕事であるのだから仕方がないのかもしれない。黙って聞いていたリィアはしかし「あそこが宗教学」と聞いて足を止める。
男はそれに気づかず数歩進んでから、彼女を振り返った。
「どうかした?」
「この大陸は……魔法士は皆、無神論者と聞きました」
「皆じゃないけど、大体そうだね。元はトゥルダールって国の思想だったんだけど」
「なのに研究するんですか?」
「研究者には魔法士以外もいっぱいいるからね。信仰と学問は別だ」
「神なんていないのに?」
「実在していなくても影響はあるよ。どの分野にも多かれ少なかれ関わってる」
「でも―――― 」



どろりとした熱が臓腑を焼く。
この感情を、何と言葉にしたらいいのか分からない。ただ最後に握った友人の手の細さが、目の奥に浮かんだ。
リィアは震える指でこめかみを押さえる。
―――― 神などいない。
そうでなければおかしい。神は、人を救わない。
だがならば何故、二つの大陸はこんなにも違うのか。
同じ言語、似た文化を持ちながらあまりにも異なる空気。
幸福を普通と言って恥じることのない平穏は、いるはずのない神の恩恵なのか。
信仰に囚われながら苦しんだ人間たちを思い出し、リィアは喉を詰まらせた。整理できぬ憎悪がこぼれ出しそうになる。



「君は信仰者?」
男の声は乾いており、リィアはその熱のなさで理性を僅かに取り戻した。力なく頭を振る。
「信じてない」
「そう。でも昔は信じることが当たり前だった。混乱してた時代があったからね。支えを欲しがったんだ」
「それで何も得られなくても?」
「支えが得られた」
抽象的な話だ。リィアは反射的に誤魔化されているのではないかと用心しながら、だが口を挟まなかった。
男の藍色の目は波紋のない水面に似て、多くのものが映し出されているように思える 。
彼は思考を巡らせているのか少し首を傾けた。
「宗教学とはつまりは、人間を研究する学問だ。そこに神の意志があるわけじゃない。結局は人の問題だ。
 ……だからむしろ僕なんかは、信仰を持たない人間の方が研究に向いてるんじゃないかって思うけどね」
男の手が本棚の縁に触れる。
染み込んだ年月。そこにあるものはリィアの知らない透徹であった。
気勢を削がれた彼女は、今までこの大陸が飲み込んできたものとは何か、ふと思いを馳せる。



沈黙は長くは続かなかった。
男は踵を返すと奥へ進み始める。リィアは何も言わずその後を追った。自分の溜息がまるで他人のもののように聞こえる。
彼女は規則正しい歩調を保つ男を見上げると、ぽつりと問うた。
「あなたは、神を信じてる?」
「信じてないよ」
返答は苦笑混じりのものだった。
初めて彼が見せる感情の変化に、リィアは意外さを抱く。男は振り返らずに長い指で天井を指した。
「ただ、僕の妻が聞いてきた話曰く―――― この大陸に生まれる子は皆、神に愛されてるんだそうだ」
「神に愛されてる……?」
「気休めだろうけどね。それで気が楽になるなら、信じることに意味はあるとは思うよ」

喉の奥が痛む。
リィアは子供であった自分たちを思い出す。
答は出ない。まだ何も言うことが出来ない。
彼女は何も掴めなかった手をきつく握ると、深く息を吐き出した。
叶わなかった夢は、けれど記憶の中で未だ鮮やかだった。