泣き声

mudan tensai genkin desu -yuki

第一印象は「印象の薄い娘だ」というものだった。
仕事でたまたま一緒になった老兵の娘。彼の死に水を取ったケグスは、娘にその死を伝えるよう頼まれたのだ。
実際のところ傭兵などという仕事をしていると、心残りを抱いて死ぬ人間など珍しくもない。
だからケグスが老兵の頼みを聞いたのは、単に次の仕事場に娘の家が近かったというだけのものだろう。
街外れの古ぼけた屋敷から出てきた娘は、ケグスの話を聞いて愕然とした表情を見せたものの、すぐに頭を下げる。
「……父のこと、教えてくださってありがとうございます」
泣くわけでも叫ぶわけでもない彼女の声は、けれど微かに震えて聞こえた。
どのような顔の娘だったかは、よく覚えていない。
ただ感情を押し殺して自分を保とうとするその声だけが、彼の記憶に残っていた。



「あの、お久しぶりです」
街中で突然かけられた声に驚いたケグスは、目の前で微笑む娘が誰なのか、本当に思い出せなかった。
傭兵の顔を覚えている者にろくな人間はいないという思い込みが、記憶の混濁に拍車をかけていたのかもしれない。
何も言わない彼に、娘もそれを察したのか苦笑する。
「昨年、父の訃報を届けて頂いた者です」
「……ああ」
そう言えばそんなこともあったと、ようやくケグスは思い出した。
気づいて見れば彼女の顔に覚えはないが、その声は記憶している。
高すぎず低すぎず、少し掠れたような声。名前も知らぬ彼女を認識したケグスは、軽く頷く。
「元気そうだな。引っ越したのか」
「ええ。伯父が私を引き取ってくださいまして。今はこの街に住んでいます」
そう言う娘の服は、以前よりも質がよく上品なものになっていた。
深緑の襟元は白い首元を映えさせ、ともすれば地味な顔立ちに見える娘に年相応の瑞々しさを与えている。
化粧けがない彼女の顔は、だがその分生真面目さを見る者に抱かせた。
挨拶をしただけで話すことがなくなってしまったケグスは、彼女が抱えている厚い本に気づく。
「難しいものを読むんだな」
「ええ……勉強をさせて頂いているもので。今もこれから新しい本を取りに行くところです」
「そうか。大変そうだな」
ケグスも生きていく為に知っておいた方がいいということで読み書きを身につけてはいるが、難しい本など手に取る気にもなれない。
だがそういった本を読む人種がいなければ、上手く回らないことがあるのも事実だろう。
ケグスは彼女の為に道を開けた。
「邪魔しちまったな」
「いえ、そんな。私が声をかけましたのに」
娘は恐縮したような微苦笑で頭を下げると、ケグスの脇をすり抜けた。その背に彼は軽い声をかける。
「気楽にやれよ」
雑踏の中に飲まれかけていた娘は、彼を振り返ると微笑んだ。
「またお会い出来ることを祈ってます」
大陸の争乱に翻弄される人間たちがよく口にする別れの言葉。
それはけれどすぐに現実となった。



後から思えば巡り合わせの悪い出来事だったのだろう。
ケグスが受けた仕事は彼女の住む街でのものだった。水面下での権力闘争にかかわる長期の仕事。
たまたま買出しにいった先の店で、彼女と再会したケグスは若干の気まずい思いを味わう。
しかし娘の方は驚きはしたが、素直に嬉しそうな表情をも見せた。
「奇遇ですね。お仕事ですか?」
「ああ。ちょっとな」
「私、この店よく来るんです」
彼女は手に持った小さな籠の中身を示す。その中には銅製の小さな飾り玉が入っていた。
同じ店で火薬玉を買ったケグスは苦笑する。
「装飾具でも作るのか」
「ええ。趣味なんです」
「そりゃいい。面白そうだな」
「あ、あの!」
社交辞令を口にして店を出ようとした彼を、呼び止めたのは娘の方だ。
扉にかけた手をそのままに、ケグスは目を丸くする。それだけでなく店中の視線を集めてしまった彼女は、たちまちのうちに赤面した。
「……すみません。私ただ、父のことを教えて頂きたくて」
「いや、大したことは知らない。俺もあの仕事で一緒になっただけだしな」
ケグスはそっけなく首を横に振った。
―――― 死者のことを知りたいと、聞かれることはないわけではない。
だが彼はそのような行為に大した意味などないと思っていた。死んだ人間のことを聞いて何が変わるわけでもない。
慰めが得られるような気がしてもそれはほんの一時のことだ。記憶の中から薄らがない限り、欠損は人を苛む。
だから彼は、たとえ老兵のことをよく知っていたとしても、娘の望みに応える気はなかった。
しかしそれを聞いた彼女は、躊躇いを見せながらも食い下がる。
「あの……では、あなたのことを」
「…………は?」
「あ、あなたのことを教えてください」
娘は真剣な眼差しで彼を見上げる。その声は僅かに固く、薄羽のように震えていた。

街での仕事が終わるまでには三ヶ月かかった。
その間に何度彼女に会ったかは覚えていない。何人殺したかは覚えていた。
彼女は会う度に、他愛もない話をケグスから聞きたがった。
それは父親の死によって恵まれた生活を得た彼女の、負い目の現れの一つであるのだろう。
父と同じ戦闘職の彼の現実を聞くことで、彼女は何らかの整理をつけようとしているように見えた。
ただそれだけではないことも、ケグスはまた気づいていた。
気づいていながら自分を探しに来る娘を止めずにいたのは、少し掠れた彼女の声が心地よかったからかもしれない。
仕事が終わって出立を翌日に控えた日の夜、宿にまで訪ねてきた娘を、ケグスは呆れながら迎える。
「なんだ、どうしたんだ?」
「お別れの挨拶に参りました」
「……よく分かったな」
無事に仕事を終えたのは二日前のことだ。それから今日までの間、彼女には会っていないし、街を去ることも言っていなかった。
なのにどうして分かったのか、怪訝さを隠し切れないケグスに娘は微笑む。
「いいえ。私がこの街を去るのです」
「あんたが?」
「ええ。明日『キエラの薔薇』に入ります」
「―――― それは」
娘が挙げた名は、この国の城都にある高級娼館だ。
戦場に近い町のうらびれた娼館とは違って、貴族などを客に持つ、抜きん出た美貌や優れた才知を持つ女ばかりを集めた娼館。
そこに属する女は皆、上流階級の人間と見分けがつかぬほど洗練されているのだという。
噂の程を一介の傭兵であるケグスなどが確かめることは出来なかったが、その話は聞いていた。
沈黙する彼に、娘は気まずそうにはにかむ。
「私程度の容姿で、とお思いですか?」
「いや違う。そうじゃなくてな、何でそんな……」
「お恥ずかしながらちょっとした事件がありまして……それに絡んで伯父の立場が苦しくなったのです。
 キエラの薔薇に行けば今まで通り学問が学べると言われまして」
その言葉に、ケグスは思わず声を上げそうになった。
この街でつい先日起こった政変は、彼が仕事で関わっていたものだ。
仕事は無事成功に終わったが、雇い主の政敵や協力者は何人か失脚したという。その中に彼女の伯父がいたのかもしれない。
娘はそれを知らないのだろう。何と言っていいか逡巡するケグスに、困ったような笑顔を見せた。
「ですから、最後にあなたにお会いしようと思ったのです」
「……学問がしたいってなら、ログロキアの学府に行けばいい」
意欲のある者であれば誰でも迎え入れるという場所の名を、ケグスは挙げる。
しかし娘は首を横に振った。
「私が行けば、伯父も助かるのです」
凛とした声は、震えてはいなかった。
震えていたのは小さな手だ。彼女はその中に握っていた貝器をケグスに差し出す。
「塗ってください」
鮮やかな紅は、一度も使われた痕がなかった。
白い貝器の中の赤は、血の色よりも余程従順で、そして頑なだ。
彼は黙って白い貝器を受け取る。
―――― 悪い巡り合わせだ。
だが彼女が選んでいる以上、躊躇いは見せない。剣を取る指がそっと柔らかな紅を掬った。
目を閉じる女の唇に、ケグスはゆっくりと紅を乗せていく。



本当のことを教えても、彼女は彼を詰ることはしなかった。
ただ「会いに来て下さい」と言っただけだ。






彼女のいる娼館は、本来傭兵などが立ち入れる場所ではない。
だがケグスは彼女自身の招きにより、何度かその部屋を訪れることがあった。
勿論行っても会えなかったことの方が多い。他に客が入れば門前払いをされるのが落ちだ。
ただ彼女は元々才がある女性だったのだろう。ほんの三年のうちに数人の上客を得、その分店に無理を通すことが出来るようになっていった。
数ヶ月ぶりに豪奢な娼館を訪ねたケグスは、温かいお茶と共に彼女に迎えられる。
「お久しぶりです。最近お会いしていなかったので、心配しておりました」
「ちょっとケレスメンティアの動乱にかかわっててな」
「あら……」
女の声に驚きが混ざる。
それもそうだろう。神代から続いてきた皇国が、突然他国に攻め込まれ滅んだのだ。
この件に関して詳しく知りたがっている者は数多いる。彼女の客にもそのような人間はいるのだろう。
女は瞬間、探るような目でケグスを見たが、彼を気遣ってかそれ以上何も聞こうとはしなかった。
話題は自然、当たり障りのない世情のことへと移っていく。

彼女はこの三年で、すっかり美しい女になった。
環境がそうさせるのだろう。結われた髪や化粧を施した顔、洗練された仕草などに、昔の彼女と同じものは何一つない。
ただ高すぎず低すぎない声だけが、過去から変わらずケグスの中に響く。
子守唄が似合うであろうその声は、けれど娼館の部屋においては震えることはなかった。
開けた酒瓶が空になった頃、彼は窓の外が暗くなっているのを見て、いつものように席を立つ。挨拶の代わりに、左手で女の頬に触れた。
「じゃあ、また来る」
数少ない再会の言葉。しかし彼女はこの時、普段のようには頷かなかった。
何かを言おうと開かれた唇が、また閉じられる。
女はそうしてたっぷり数秒の間瞼を下ろすと、か細い声で言った。
「もう、来ないでください」

拒絶の言葉にケグスは驚きはしなかった。
むしろ今まで、彼女が笑って自分を迎えていたことこそがおかしいと思っていたくらいだ。
遡れば彼は、父親の死を告げに来た人間で、更には恵まれた環境から彼女を娼館に追いやった男だ。憎まれない方がおかしい。
だがそう納得しかけた男を、彼女の震える声が追う。
「私は、あなたとお会いしている時だけ……今の自分を後悔するのです」
微かな吐息。
それは、嘆息よりも触れがたい熱を持っていた。白い手の甲が、己の唇に塗られた紅を拭う。
―――― その味を、忘れた訳ではない。
軽んじた訳でもなかった。ただ彼女の「客」でいたくなかっただけだ。
けれど彼がそう思う間、彼女も苛まれていたのかもしれない。久しぶりに聞く嗚咽が彼をそっと遠ざける。
顔を覆ってかぶりを振る女を前に、ケグスは黙って踵を返した。部屋の扉を開けて呟く。
「俺は、何も気にしちゃいなかったよ」
それは偽りのない言葉だった。



疲れて眠る浅い夢の中で、彼女の声を聞くことがある。
心地よい響きを持った、少し掠れた声。
子守唄が似合うだろうと思った。よい母親になるのではないかとも。
そんな風に振り返る。
度し難い夢だと、思った。